[コラム]図書紹介4:江戸時代の画譜 *会員限定*

株式会社千總(以下、千總)所蔵の版本には、今尾景年『景年花鳥画譜』をはじめとした多数の画譜、すなわち絵手本が含まれています(『景年花鳥画譜』についてはこちら)。図書紹介の第4回目は、それらの画譜のうち江戸時代に出版されたものを取り上げてご紹介します。

 

 

画譜の出版

(Fig.1) 上田公長『公長画譜』4冊、1834(天保5)・1850(嘉永3)年

 

国内における画譜の出版は、江戸時代、中国からの画譜の輸入をきっかけとして始まりました。その出版の理由について、例えば1834(天保5)年刊『公長画譜』にはこう書かれています。

 

古人云ルアリ、画ハ声ナキノ詩也、詩ハ形ナキノ画也、両ナカラ規格アリ、其画タルヤ写生風韻ニ至ルマテ一モ連続セサレハ画トシテ見ルヘカラス、声ナキノ詩ト云カタシ、(中略)是先生ノ心ヲ尽シ、初学ニ示サンタメ世人ノ愛玩ト形容トヲ拾テ楷梯ヲ旨トシテ三柳大人ノ需ニ応スル意旨也、(後略)*1

 

『公長画譜』(Fig.1)は呉春に学んだ大坂の絵師・上田公長(1788~1850)が画を担当した画譜で、弟子をとる余裕がないためにこのような絵手本を出版したと序文に書かれています。上に挙げた附言は蔵版元である田宮信朋が天地巻のうち地巻の末尾に記した文章で、文中の「先生」とは上田公長を指しますが、この本の制作意図がよく表れています。

絵画の異称として「無声詩」という言葉があるように、画と詩は芸術表現として形を伴うか声を伴うかという対比関係にあると考えられています。田宮はここで、押韻などの規格をもつ詩と同じように、画においても表現や趣に一定の軌範に則った連続性がなければ画として成立しないと述べています。画譜が人気を博した背景として出版技術の確立やそれによる版本挿絵の流通など様々なものがありますが、画を志した初学者にとって、このような画譜は様々な流派の画を気軽に学べる教本として快く受け入れられたことでしょう。

 

(Fig.2) 上田公長『公長画譜』天巻、1834(天保5)年

 

その内容(Fig.2)を見てみると、掛軸を想定したと思われる縦長の画面を界線で区切り、その中にモチーフがバランスよく配置されています。印章を捺すべき位置も朱で図示するなど、まさに絵を描くときのお手本といった趣の画が並びます。

 

略画を極める

絵を描く者にとって、描く対象の輪郭を素早く捉え、正確でなくとも「それらしく」見えるよう描きうつす技術は必須といえるでしょう。江戸時代、そうした描き方は略画と名付けられ、俳画などの席画に応用されました。略画の絵手本も多数出版され、その中でも『略画式』をはじめとした鍬形蕙斎(くわがたけいさい、1764~1824)による一連の絵手本がよく知られています。千總には『人物略画式』文化10年版が所蔵されています。

 

(Fig.3)鍬形蕙斎『人物略画式』1813(文化10)年

 

いずれも選び抜かれた線で人物の形を捉え、思わず真似して描きたくなるようないきいきとした表現が魅力です。(Fig.3)の右頁のような素朴さのある群像表現は蕙斎の特徴といえるでしょう。様々なシチュエーションの人物画が掲載されているため、それらをパーツとして組み合わせ、新たな作品を作り出すことが可能な構成となっています。

ところで、(Fig.3)のように、千總所蔵の画譜にはしみや墨汚れのついたものがしばしば見られます。誰かがこの本を傍らに置きながら描き方をまねたのでしょうか、使い込まれた様子です。

 

また、この翌年に出版された葛飾北斎の『略画早指南』も、後編のみではありますが千總に所蔵されています。

 

(Fig.4)葛飾北斎『略画早指南』後編、1814(文化11)年
(Fig.5)葛飾北斎『略画早指南』後編、1814(文化11)年

 

こちらも略画ですが、ただの省筆画ではなく、漢字やかな文字を組み込んだ画となっています。画譜の作者は浮世絵師として活躍した葛飾北斎です。(Fig.4)左ページでは「一心」の字をもとに、腰をひねり座る男性の姿を表しています。右上には画は自分の心を一つに描けば神羅万象描けぬものはないと語る説明文も付され、絵を描く心構えまでもを説いています。よく見ると、男性が見つめる鳥もまた、「心」の字をもとに描かれていることに気付かされます。(Fig.5)左ページには「ふじ」の字から連想された三峰形の富士山と、「三ホ」で表された三保の松原が描かれています。一見駄洒落のようですが、平安時代の工芸品にみられる芦手絵*2ともつながる発想です。

 

個性を表す

ここまで、あくまで絵手本の役割を逸脱しない画譜を見てきましたが、画譜の楽しみはそれだけではありません。各流派や画家の個性が花開いた、作品集としての見方ができるのも画譜の魅力のひとつです。

 

(Fig.6)『光琳画譜』乾巻、1802(享和2)年

 

今では展覧会でおなじみの琳派は、時代を問わず人々の人気を集めていたようです。琳派は祖である俵屋宗達と本阿弥光悦の表現を、尾形光琳、さらに酒井抱一らが継承して発展しました。琳派の画家による画譜も多数出版されており、光琳の名を冠する画譜に至っては、千總に七種の版本が伝わっています。その中でもこの『光琳画譜』は、版本でありながらも琳派に多いたらし込みの技法*3が表現され、ゆるやかな梅花の輪郭や色彩のグラデーションが見る者の心をなごませます(Fig.6)。

しかし、この画譜は光琳の没後90年ほど経ってから出されており、光琳が筆をふるって制作されたものではありません。原画は光琳によるものですが、光琳に私淑したといわれる大坂の絵師・中村芳中の模写によって構成されています。これらの画を真似て描くのも画譜の使い方のひとつですが、むしろ芳中のおおらかな輪郭線と柔らかい色彩を楽しむことのできる、芳中の作品集として鑑賞するのに向いているといえます。

 

(Fig.7)野々村忠兵衛『光琳絵本道知辺』、1735(享保20)年

 

 もちろん、琳派の絵手本向けの画譜も遺されており、『光琳絵本道知辺』(Fig.7)などはその一例です。こちらも尾形光琳の原画を、京都の絵師・野々村忠兵衛(生没年不詳)が写したということが自序によって知られます。墨刷りですが、かえってシンプルな筆運びが際立って見え、琳派の画風を学ぶためのお手本のような内容です。ちなみに、野々村は『雛形染色の山』(1732〔享保17〕年)など複数の小袖模様雛形本でも作画を担当しており、江戸時代の出版文化を背景として活躍した琳派の絵師であると推察されます。

 

江戸時代が終わりに近づく頃にも、画譜の出版は続きます。幕末明治の絵師・河鍋暁斎(1831~1889)の画譜がその代表的なもののひとつです。本コラム団扇本の回でもご紹介しましたが、彼は画譜もまた多く出版して人気を博しており、千總にはそのうち『暁斎画談』と『狂斎画譜』の2種類の画譜が伝わっています。

 

(Fig.8)河鍋暁斎『狂斎画譜』初編、1860(万延元)年序
(Fig.9)河鍋暁斎『狂斎画譜』初編、1860(万延元)年序

 

画譜のなかには見開きや半丁を使った一枚絵も多く、色版の重ね刷りを活かした蚊帳の表現はさすがといえます(Fig.9)。こちらも絵手本としての用途より、暁斎の作品集として見られることを意識した内容です。彼の画譜を眺めると、絵を描く楽しさが実感として伝わってくるかのようです。

絵手本あるいは作品集として現代の私たちの眼をも楽しませてくれる画譜ですが、千總でどのような意図をもって集められ、活用されたかは残念ながら明らかになっていません。今後も版本の調査を継続し、解明していきたいと考えています。

 

[注]

*1 原文の翻刻にあたり、旧字体を新字体に、異体字を正体字に改め、適宜句読点を補った。

*2 平安時代後期に流行した、「芦手」と呼ばれる文字が図の中に溶け込むように描かれた絵のこと。蒔絵などの工芸意匠や、経巻の見返し絵・料紙装飾などに作例が遺る。

*3 俵屋宗達が考案したといわれる絵画技法。乾いていない状態の水墨や絵具に異なる濃度の水墨や絵具を垂らし、にじませる。

 

[参考文献]

鈴木淳「『光琳画譜』孝」『浮世絵芸術』145号、国際浮世絵学会、pp.3-22、2003年.

岩佐伸一 「上田公長『公長画譜』について」鈴木淳・浅野秀剛著編『江戸の絵本 -画像とテキストの綾なせる世界-』八木書店、2010年.

 

 

第1回「千總と近世文化
第2回「団扇本
第3回「ちりめん本

 

 

(文責 林春名)