[コラム]千總と近代画家4:榊原文翠 *会員限定*

明治期の千總は、刺繍絵画や友禅製品において数々の受賞を重ねましたが、その華々しい功績には多くの画家の協力が不可欠でした。

画家との繋がりは、現在株式会社千總(以下、千總)に所蔵される絵画や友禅裂などの美術工芸品だけでなく、文書でも確認することができます。本コラムでは、シリーズで明治・大正時代の決算報告書類に登場する画家を紹介し、試みに当時の千總または京都の美術工芸業界のネットワークを改めて整理することを目指します(決算報告書類についての説明はこちらをご覧ください。)。

第4回は、画家だけでなく国学者としても活動した、榊原文翠です。千總には、文翠が下絵を手掛けたとされる友禅裂が多く現存していますが、文書からはこうした関係以外の交流が垣間見られます。

 

 

[榊原文翠]

 

・決算報告書類の掲載年      1881年(明治14)、1889年(明治22)、1891~1895年(明治24~28)

・生没年月日          1824年(文政8)~1909年(明治42) (享年86歳)

・出生地                江戸

・活動拠点など   京都(上京区瓦師町、上京区突抜町、など)

・家族                父 榊原長基(幕臣)            

・流派             土佐派など

・師匠             谷文晁、遠坂文雍に師事。

・門下           飯高渓雪など

・略歴

 江戸出身で、大和絵を得意とした日本画家。名は清記、長敏、号を文翠、別号を佳友、鶴松翁、気揚山人とした。当初は谷文晁に師事したが、後に文晁門下の遠坂文雍の門弟となる。上京後は大和絵を学んだとされており、明治15年および明治17年の内国絵画共進会では受賞した。また明治24から30年まで京都市美術学校(明治27年より京都市美術工芸学校)の絵画科において教鞭をとり、明治26年6月25日に土佐光武らとともに大和絵会を結成するなど、後進の育成にも力を注いだ。国学については、当初国学者である小中村清矩から学び、京都和学所に出仕し宮内省大舎人として神道中教正(中教院カ)および白峯宮(現 白峯神宮)に奉仕したようだ。有職故実にも通じていたとされ、第22回京都博覧会(京都市新古工芸展覧会、明治26年)では、日本固有の装飾法を陳列するとして、冷泉家の補助として富岡鉄斎とともに、有職飾・書院飾を担当した。

 

・主な代表作

〈鳥羽僧正図〉(1885)第14回京都博覧会にて妙技賞銅牌を受賞

〈小松重盛諫言之図〉1幅(1893)シカゴ万国博覧会に出品

 〈大極殿図〉、〈東山眺望図〉 (1894)明治天皇大婚25年祝典にあたり京都市から献上した屏風。原在泉とともに制作

〈京都四季名勝画帖〉(1896)第2回新古美術品展覧会において、岸竹堂、今尾景年、望月玉泉他8名とともに制作された

 

・千總に所蔵される関係作品、資料

文翠が下絵を手掛けたとされる9点の友禅裂が現存している。この数は同様の友禅裂の下絵制作に携わった画家の中で最も多い。扇や甲冑、女房、寝殿造りなど、大和絵や歴史画からの影響が色濃い図案ばかりであり、文翠の特徴を反映していると言い換えることができる。

 

友禅裂〈座敷尽くし〉文様 1881年(明治14)

 

友禅裂〈有職大檜扇〉文様 1884年(明治17) 

 

友禅裂〈松に千鳥〉文様 1890年(明治23) 

 

友禅裂〈武具散し〉文様 1890年(明治23) 

 

友禅裂〈霞に色紙〉文様 1890年(明治23) 

 

友禅裂〈元禄踊り〉文様 1891年(明治24) 

 

友禅裂〈能扇面集〉文様 1892年(明治25) 

 

友禅裂〈色紙に御殿〉文様 1893年(明治26) 

 

友禅裂〈円窓読書〉文様 1900年(明治33) 

 

 

文翠と伝わる絵画や摸写も現存している。

 

・〈歴史絵図〉一巻

 

 

日本武尊や、源氏物語の野々宮などの歴史画5紙から成る画巻。墨でややラフに描かれたモチーフに、薄く彩色が施されている。

掲載の本紙には、後三年の役で死を覚悟した源義光が豊原時秋に笙の秘曲を伝授する場面である、「足柄山」が描かれている。略筆だが甲冑や装束が丁寧に描かれている点に、大和絵や有職に精通した文翠らしさが窺えるだろうか。画面の左隅には「文翠稿」の落款と「敏」の朱文円印が確認できる。

足柄山を描いた作品が、文翠の没後に刊行された作品集『文翠画集』にも掲載されているが、本作はそれよりもやや簡略的にされている。落款の「稿」は下書きを意味するとも考えられるが、今後も慎重に検証を重ねたい。

 

・〈模本 伊藤若冲筆伏見人形図〉のうち〈七布袋〉

 

 

文翠が模写したと伝わる近世の画家伊藤若冲の伏見人形図の模本。7人の布袋さんが色とりどりに描かれており、おおらかな筆致と彩色で表現された素朴な作品。絵だけでなく、画面の上部には賛と印も模写されている。本作の他にも「牛」「鬼に金棒」「きつね」「童子と鶏」「婦人」が現存し、6幅対として伝わっている。伏見人形とは京都の伏見稲荷大社で売られる土人形で、江戸時代にはお土産として多くの人の手に渡ったと言われている。伏見人形を描いた作品を若冲は複数遺しており、詳細は不明だが本作もそのいずれかの作品を典拠としたと考えられる。

 

 

多くはないが、文翠が記した文書も数点現存している。

 

・〈口演(御実母御逝去ノ由)〉

 

 

12代西村總左衛門の実母静枝の訃報を受けて、送られたお悔やみの書簡。1893(明治26)年3月上旬頃と思われる。書簡では、葬送に参列できないことを詫びるとともに、以下のような故人を偲ぶ詩を寄せている。画家と当主の交流の一端が垣間見られる。

 

  乳のみて

   むかしのことや

  しのふらん

   かへらぬ

    母に

   なきわかれして

 

※2023年5月31日一部訂正しました。

 

・〈沈南蘋画幅友禅染由来記〉

 

沈南蘋筆〈花鳥動物図〉(三井記念美術館蔵)を模写した〈模本沈南蘋花鳥動物図〉に付帯している文書。同模本をもとに、千總は明治10年ごろまでに〈十二ヶ月禽獣図屏風〉(明治神宮所蔵)を製作し、宮内省(当時)に納められた。本由来記において、文翠は模本の製作経緯や関係する詩などについて記している。しかし、模本の制作者は岸竹堂、今尾景年、望月玉泉であるとされ、文翠は制作に関わっていない。由来記の成立背景は今後の課題だが、想像力を逞しくするならば、後に宮内省大舎人を務める文翠は国学者として〈模本沈南蘋花鳥動物図〉の由来記を作成したのかもしれない。

 

・オンラインで閲覧可能な参考文献

※書名をクリックすると国立国会図書館デジタルアーカイブにアクセスできます

農商務省博覧会掛(編)『内国絵画共進会出品人略譜 第2回 』国文社、1884

京都市立美術工芸学校一覧』京都市立美術工芸学校,1908 

内国絵画共進会審査報告 附録(明治15年)』農商務省,1883

 

・その他の主な参考文献

村上清蔵(編)『文翠画集』芸艸堂,1925

神崎憲一 『京都に於ける日本画史』京都精版印刷社,1929

『京都府百年の年表(美術工芸編)』 京都府,1970

日出新聞 明治26年1月29日版他

 

 

(文責 小田桃子)