[コラム]千總と近代画家2:望月玉泉、田村宗立*会員限定*

明治期の千總は、刺繍絵画や友禅製品において数々の受賞を重ねましたが、その華々しい功績には多くの画家の協力が不可欠でした。

画家との繋がりは、現在株式会社千總(以下、千總)に所蔵される絵画や友禅裂などの美術工芸品だけでなく、文書でも確認することができます。本コラムでは、シリーズで明治・大正時代の決算報告書類に登場する画家を紹介し、試みに当時の千總または京都の美術工芸業界のネットワークに対する理解を改めて深めることを目指します(決算報告書類についての説明はこちらをご覧ください)。

第2回は、近代の京都画壇を代表する画家のひとりである望月玉泉と、京都における洋画・油絵の草創期を切り拓いた画家の田村宗立です。

 

[望月玉泉]

・決算報告書類における初出      1881年(明治14)

・生没年月日          1834年(天保5)6月14日~1913年(大正2)9月16日(享年80歳)

・出生地                  京都(室町竹屋町)

・活動拠点など   京都(新町丸太町、新町三条北、室町通丸太町下る西側など)

・家族                曽祖父 望月玉蟾(画家)、父 望月玉川(画家)            

・流派             望月派(4代目)

・師匠             望月玉川に師事。(円山四条派の技法にも学んだとされる)

・門下          川合玉堂、跡見玉枝、藤井玉洲など

・略歴

 京都出身の日本画家。名は重岑、字は主一で、通称を駿(俊)三、また号を玉泉、別号を玉渓とした。曽祖父の望月玉蟾を派狙とする望月流の4代目の画家であり、絵を父の3代目玉川から、文学を儒学者の岩垣月洲(六蔵)から学び、1852年(嘉永5)に18歳で望月家の家督を継いだ。望月家は代々宮中での仕事を請け負っており、玉泉も1855年(安政2)の内裏造営の際の襖絵および明治天皇即位を祝う屏風絵の御用を務めた。特に玉泉は菊亭家に仕え、伊勢や相模など各地を遊歴したとされる。

1880年(明治13)に開学した京都府画学校で、東宗(大和絵)の副教員を務めた。なお、同学設立を請願する建議書に幸野楳嶺、久保田米僊、巨勢小石とともに名を連ねた。以後、第3回内国勧業博覧会(1890)やパリ万国博覧会(1900)などの各種の博覧会や共進会に出品し、第4回内国勧業博覧会(1895)では妙技2等賞を受賞した。1904 年(明治37)に、帝室技芸員に任命された。

 

・主な代表作

岩藤熊萩野猪〉六曲一双(1867頃) 明治天皇即位を祝して調進(東京国立博物館蔵)

湍淵遊鱗図〉1幅(1893)シカゴ万国博覧会に出品(東京国立博物館蔵)

雪中芦雁図〉六曲一双(1895)第4回内国勧業博覧会に出品、妙技2等賞(静嘉堂文庫美術館蔵)

〈御幸橋之雨景・神泉苑之景〉(個人蔵)、〈長岡春祠・深草秋梵図〉(京都府立京都学・歴彩館蔵)、〈池畔驟雨図〉(長岡天満宮蔵)(以上、1888-1891頃)平安百景図の一部

 

・千總に所蔵される関係作品、資料

望月玉泉下絵 友禅裂〈三種の神器〉文様 1890年(明治23)

 

望月玉泉下絵 友禅裂〈翁格子地地紙〉1892年(明治25)

 

本コラムを作成するにあたっての主な参考文献を、以下にご紹介します。近年は、図書館や美術館のアーカイブ整備が進んでおり、オンラインで閲覧できる資料が増加しています。ご興味を持たれた方はご活用いただければ幸いです。

 

・オンラインで閲覧可能な参考文献

※書名をクリックすると国立国会図書館デジタルアーカイブにアクセスできます

望月玉泉『玉泉習画帖. 麟 』田中治兵衛、1891(他、鳳巻、亀巻)

望月玉泉『石譜十四式』松田庄助、1905

黒田天外『名家歴訪録 上編』1899 

・その他の主な参考文献

神崎憲一 『京都に於ける日本画史』京都精版印刷社、1929

植田彩芳子, 中野慎之, 藤本真名美, 森光彦『近代京都日本画史』求龍堂、2020

斉藤全人「特集 一九〇〇年パリ万国博覧会出品作(三) 望月玉泉筆「雕養雛図」について」『三の丸尚蔵館年報・紀要』第16号、2009、pp.23-28

 

 

[田村宗立]

・決算報告書類における初出      1881年(明治14)

・生没年月日   1846年(弘化3)8月20日(または5月8日)~1918年(大正7)7月10日(享年73歳)

・出生地                 丹波国船井郡河内村(現 都府南丹市園部町船岡)

・活動拠点など  丹波国桑田郡王子村(現 亀岡市篠町王子)、六角堂能満院(現 頂法寺〔通称 六角堂〕境内の西側)、

         蓮光院、祇園下河原月見町(私塾明治画学館)、知恩院山内光玄院など

・家族      父 田村宗貫(医師)公卿の中山家に出仕 

         母 佐野忠左衛門の二女ナミ(または尚子)

         妻 友子

・師匠など    東山双林寺の住職、大雅堂清亮(南画、1855頃)

         六角堂能満院の画僧、大願憲海(仏画、1856頃)

         初代玄々堂・松本保居など(銅版画)

         写真師の品川(写真)

         ドイツ人医師ランケック、イギリス人建築家ウエットンなど(油画、1872~1877頃までか)

・門下      伊藤快彦、原熊太郎など

・略歴

 近代京都における洋画・油画の先覚者。本名は不明、別号を月樵、十方明とした。10歳のころに上洛し東山双林寺で南画を、六角堂能満院工房で仏画をそれぞれ学んだ。その後、「真物に見ゆる画」を求めて、写生画を描き、写真技術や銅版画などの指導を受けることにより、陰影法や遠近法などの西洋画法を獲得していった。最終的に、1872年(明治5)から油絵を学びはじめ、1877年の第1回内国勧業博覧会では油画〈下賀茂社頭ノ図〉を出品し褒状を受け、1879年には東山双林寺で開催された油絵展に16点の油画などを出品した。また個人の研鑽に努めるだけでなく、1881年に京都府画学校の西宗(西洋画)の副教員として若手の指導にあたり、伊藤快彦や田中九衛などの、後進の育成に尽力したことも知られている。西洋美術排斥運動が起こる中、1889年に同学を退職し私塾明治画学館を立ち上げ、洋画の再興を目指した。1906年には浅井忠、伊藤快彦とともに関西美術院を創設する。

主な受賞は、進歩銅賞牌「水彩画」第4回京都博覧会(1875)、御用画〈月の図〉第1回内国絵画共進会(1882)、2等銀牌〈婦人図〉京都美術博覧会(1890)など。

 

・主な代表作

写生画帖」(1861-1863〔文久元~文久3〕)(京都国立近代美術館)

〈加代の像〉1面(1879頃)((財)倉敷山田コレクション所蔵)

京都駆黴院図〉1面(1885)(京都国立近代美術館)

〈琵琶湖疏水工事之図〉全3巻(1887)(三の丸尚蔵館)

越後海岩図屏風〉六曲一隻(1903)(京都国立近代美術館)

 

・千總に所蔵される関係作品、資料

1881年(明治14)~1886年(明治19)の決算書において田村宗立の名前を確認できるが、管見の限り千總には、同時期またはそれ以後においても、宗立作と伝わる美術工芸品は現存しない。他方で、1900年のパリ万国博覧会に関する資料には、千總が出品した中の1つの刺繍作品の原画を宗立が担当した旨を記す文書が現存している。宗立が、シカゴ万国博覧会(1893)に川島甚兵衛(二代)が出品した大作〈日光祭礼図綴織壁掛〉の原画を手掛けたことは広く知られているが、千總においても同様の仕事をしていたと考えられる。残念ながらパリ万博に出品された宗立原画の刺繍作品やその写真は発見されていないが、本作品の出品解説書を以下に紹介する。

▼臨時博覧会総裁の曾禰荒助に宛てたパリ万博(1900)への出品解説書草稿(一部抜粋)

  「第十号刺繍誥墨堤春景図額 壱面

   原図 田村宗立

   繍工 渡辺伝吉

   墨堤十里桜花絢爛ノ光景縫出シテ此図中ニアリ光線ノ明暗遠近ノ度洋画ニ倣ヒテ過タズ故ニ少シ相离シテ一観スレバ油画ノ如ク更ニ退テ熟視スレバ万蔼(カ)タル春色眼前ニ逼ヲ身亦景中ノ人ナルカヲ覚エシナン」

 

解説文からも、明暗(陰影)や遠近を駆使し、見る人を作中へ誘うような、まさに宗立が目指した「真物に見ゆる」春桜の表現であったことが想像される。

 

・オンラインで閲覧可能な参考文献

黒田天外『名家歴訪録 中編』山田芸艸堂,1901

・その他の主な参考文献

『京都の洋画 資料研究』 京都市美術館、1980

『改訂版 京都洋画の黎明期』高桐書院 、2006(初版1947)

図録 『京都洋画のあけぼの』 京都文化博物館、1999

平井啓修 「田村宗立研究 ―先行研究と所蔵資料の考察―」『京都国立近代美術館研究論集 CROSS SECTIONS』vol.8、2017、pp.24-35

 

(文責 小田桃子)