意匠倶楽部との関わり

明治期の京都において、工芸品製作は「図案」と「意匠」のもとに成立するとの考えがあったとも言われていました。千總は図案だけでなく、意匠の発展にもかかわった記録があり、またその交流の一端が刺繍絵画において確認できます。

 

Fig.1 図案:波図  Fig.2 友禅裂:波図

 

 現在、千總ギャラリーでは、明治大正期に制作された友禅裂が、時系列に沿って展示されています。 こうした友禅裂や製品の制作にあたって行われていたのが、図案の作成(Fig.1、Fig.2)でした。
図案とは、染織品や陶磁器などの工芸品のデザインや模様などを予め図に表現したものを指します。千總には肉筆の図案集が複数冊所蔵されており、現存しない明治期以降の友禅製品や美術染織品の様相を伝えてくれます。(図案についての詳細は、千總ギャラリーのコラムでもご紹介しておりますので、是非ご覧ください。)
  
さて、先行研究(*1)などによると、明治期の工芸品制作には図案に加えて「意匠」も重要視されていました。図案はデザインなどを図に表したものですが、意匠はその元となるアイデアを意味していると考えられています。そして、それぞれの専門家は、図案家、意匠家と呼ばれていました。
新聞記者で小説家の金子錦二(かねこきんじ、1851~1909)は、「物を造るには資金家と意匠家と図案家と製作家の四拍子が揃はなくては出来ぬもの」(*2)として、意匠家を育成するために、明治37(1904)年に「意匠倶楽部」を設立しました。設立当初の規則によると、意匠倶楽部では美術工芸品の意匠図案の研究を目的として、毎月15日には会員の持ち寄った意匠図案などをもとに研究会を開き、毎年春秋には展覧会を催していたそうです。そして、7人いる発起人の一人に、当時の千總の番頭・斎藤宇兵衛が名を連ねていました。これは、千總が図案と意匠の両方に対して関心を寄せていたと言い換えることができるでしょう。

Fig.3 月に髑髏図  


さらに、千總の所蔵する刺繍絵画〈月に髑髏図〉(Fig.3)〈舞妓に桜図〉(Fig.4)は意匠俱楽部に持ち込まれていたことが、作品の軸箱の蓋裏に記された金子による墨書から明らかにされています。

 

此双幅故帝室技芸員岸使命ハ昌禄字ハ子和号ハ竹堂ノ作ル所画意ハ胎卵湿化
一切有情善根苟種佛果終成ニ依リ現未ニ世ノ因アリ果アルヲ示セルナリ 染工村上嘉兵衛
友禅法ヲ以テ施彩シ繍工小林久治郎刺繍ヲ以テ重襲ス明治廿三年三月十二日成功ヲ告ク
之ヲ見ルニ画ハ逸宕円熟ノ筆力ヲ以テ凄腕ノ情致ヲ描出シテ絶巧ノ妙アリ之ヲ襲飾スルニ
染彩施繍ノ慎密精緻ノ技ハ美麗幽艶ノ妙ヲ極ム蓋シ三絶ノ名幅ト称シル可シ
明治三十八年二月廿三日京都祇園萬寿小路意匠倶楽部ニ於テ 静枝処士金子錦観艦
                         ※下線は筆者が追加。旧字は新字体に変換した。

この墨書から、本作は、下絵を日本画家の岸竹堂が、刺繍を小林久治郎が、染を村上嘉兵衛がそれぞれ手掛けて、明治23年に完成されたことがわかり、その技術を金子が高く評価していることが記されています。そして、この墨書は明治38年2月23日の祇園萬寿小路において、金子により揮毫されたことが明らかにされています。祇園萬寿小路はおそらく意匠倶楽部の本部であった歌仙堂を指していると思われます。10年以上前に製作された本作を、祇園の萬寿小路にあった意匠倶楽部の本部に千總の当主・西村總左衛門や斉藤などが持ち込んだこと、また金子が本作を高く評価していることなどをうかがい知ることができます。
ちなみに、明治32年の新古美術品展覧会には西村總左衛門の名前で出品されているために、明治38年の当時も西村の所蔵であった可能性は高いと考えられます。
持ち込んだ経緯は明らかにされておらず、また規則に定められている研究会の日ではありませんが、意匠俱楽部の活動と関係のない作品を西村らが持ち込み、またそれに対して「意匠倶楽部に於て」と金子が揮毫することは考えにくいのではないでしょうか。当時の京都の美術工芸業界における意匠や図案が学ぶべきことを、金子や西村らは本作に見出していたのかもしれません。

 

 Fig.4 舞妓に桜図 

 

今後も会合の詳細などについて調査を進め、最終的には京都美術工芸品の近代化に向けた物作りに対する考え方について、さらに明らかにしていきたいと思います。

 


本稿に関する調査研究は公益財団法人髙梨学術奨励基金から助成を受けて実施されました


[主な参考文献]
*1 平光睦子『「工芸」と「美術」のあいだ: 明治中期の京都の産業美術』晃洋書房, 2017年
*2「意匠俱樂部成る」『京都美術協会雑誌』145号, 京都美術協会, 1904年