[コラム]千總と近代画家8:谷口香嶠、竹内栖鳳 *会員限定*
明治期の千總は、刺繍絵画や友禅製品において数々の受賞を重ねましたが、その華々しい功績には多くの画家の協力が不可欠でした。画家との繋がりは、現在株式会社千總(以下、千總)に所蔵される絵画や友禅裂などの美術工芸品だけでなく、文書でも確認することができます。本コラムでは、シリーズで明治・大正時代の決算報告書類に登場する画家を紹介し、試みに当時の千總または京都の美術工芸業界のネットワークを改めて整理することを目指します(決算報告書類についての説明はこちらをご覧ください。)。
第8回は、谷口香嶠(たにぐちこうきょう)と竹内栖鳳(たけうちせいほう)です。両名はいずれも、楳嶺四天王と称される、京都画壇を代表する画家です。千總における足跡は少ないものの、友禅製品の原画や図案、広報物の挿絵などの提供を通して、千總と関わりを持っていました。
[谷口香嶠]
・決算報告書類の掲載年 1895年(明治28)
・生没年月日 1864年(元治元)9月16日(8月16日)~1915年(大正4)11月9日(享年50歳)
・出生地 京都(実家は大阪日根野)
・住所 京都(下京宮川筋5丁目、西洞院通丸太町上る、富小路姉小路上る、南禅寺松林など)、その他東京、大阪など
・家族 父 辻久二郎(綿問屋)、 母 岡本縫子など
・主な作品
〈残月山姥図〉(1907)(清水寺)第1回文展出品
〈拈華微笑〉(1895)第4回内国勧業博覧会出品
・主な刊行物
『光琳画譜』田中治兵衛, 1891
『工芸図鑑』田中治兵衛, 1891
『能楽装束大観』山田芸艸堂, 1911
[竹内栖鳳]
・決算報告書類の掲載年 1901年(明治34)~1913(大正2年)
・生没年月日 1864年(元治元)12月20日(11月22日)~1942年(昭和17)8月23日(享年77歳)
・出生地 京都
・住所 京都(御池通油小路西入る、高台寺南道松屋町など、別邸に嵯峨天龍寺)、その他神奈川の湯河原など
・家族 父 竹内政七(川魚料理屋「亀政」)、母 きぬ、姉 こと
妻 高山なみ(西陣織物業)、息子 逸(評論家)など
・主な作品
〈雨霽〉(1907)第1回文展出品(東京国立近代美術館)
〈アレ夕立に〉(1909)第3回文展出品(髙島屋史料館)
〈絵になる最初〉(1913)第7回文展出品(京都市美術館)
〈班猫〉(1924)(山種美術館)
・略歴
谷口香嶠と竹内栖鳳はともに、幸野楳嶺門下の高弟である「楳嶺四天王」に数えられる、明治・大正期の京都を代表する日本画家である。
香嶠は特に歴史画家として名を馳せた。当初、実家の家業を手伝う傍らで、『芥子園画伝』などの画譜を用いて絵を独学していたが、1883(明治16)年に幸野楳嶺に入門、翌年に京都府画学校の北宗科に入学して研鑽を積んだ。幼少期から漢籍などを介した教育を受けて歴史に強い興味を抱き、12代西村總左衛門の父の三国幽眠からも漢学を学んだ。画業は、1890(明治23)年の第3回内国勧業博覧会を皮切りに大きく花開き、1900(明治33)年のパリ万国博覧会や文展など、国内外の博覧会において受賞を重ねた。一方で染織品や陶磁器など工芸品の図案家としても優れた作品を遺しており、その成果の一端を『光琳画譜』や『工芸図鑑』といった本の刊行を通して世の中に発信した。
栖鳳は、匂い立つような人物画や動物画で、現在でも広く知られている画家である。1877(明治10)年に四条派の画家に絵を学んだ後に、1881(明治14)年に幸野楳嶺に入門し、香嶠と同じく1884(明治17)年には京都府画学校の北宗科で腕を磨いた。その後は、内国絵画共進会やシカゴ・コロンブス世界博覧会など、国内外で数々の賞を獲得した他、京都府画学校などの学校へ出仕し、徐々に若手の中で頭角を現す。1901(明治32)年には、前年に派遣されたパリ万国博覧会で視察したヨーロッパに影響されて、号を西洋の西に因んだ栖鳳に改めた。1907(明治40)年以後は、文展や帝展の審査員の歴任、帝国美術院の会員、帝室技芸員への任命、第1回文化勲章の受賞など華々しい業績をあげ、京都を代表する画家となった。
・谷口香嶠に関する千總現存の資料
英文パンフレット「Nishimura Sozayemon, KYOTO NIPPON」 1891~1893年頃
当時の千總が制作した英語パンフレット。製品のカタログではなく会社案内に類するもので、千總の歴史および博覧会等での受賞歴、ならびに製品すなわち友禅染、天鵞絨友禅、刺繍、縮緬織に関する技術を、英語で紹介しています。発行年は定かではありませんが、1889(明治22)年のパリ万国博覧会の名誉大賞受賞を強調していること、受賞実績表の最後の欄が1891年であることから、次の万博のシカゴ・コロンブス世界博覧会までの、1891年から1893年頃に作成されたと推察されます。
本書には、香嶠による挿絵2枚が掲載されています。
いずれも作業風景を描いたもので、それぞれ刺繍と友禅の製作に係る様々な工程や道具、老若男女の職人が、違和感なく上品に1枚の絵に納められています。
本書の発行意図は明らかにされていませんが、冒頭で世間に出回る低品質な日本の輸出染織品について非難した上で会社や自社技術の紹介を行っていることから、自身の歴史的な正統性と確かな技術力により高品質な製品を提供する旨をアピールして他と差別化を図ったと推測されます。
そのなかで、人物の行動や工程を明確かつ上品に描き出した香嶠の挿絵は、絶大な効果を発揮したのかもしれません。
友禅を説明する挿絵 ※画面左下に「香嶠」「子復(朱文長円印)」と記される。
「刺繍誥壁掛東山雨後図」の解説書 1900年頃
谷口香嶠は、1900年のパリ万国博覧会に千總が出品した「刺繍誥壁掛東山雨後図」の原画を手掛けています。本出品作は、同会の報告書『千九百年巴里万国博覧会出品連合協会報告』などでも「本邦出品中の最優なるもの」のひとつに数えられ、当時は話題を呼んだようです。その中で香嶠は協賛金牌を授与されました。残念ながら、現物や製品写真はのこっていませんが、現存する解説書の草稿に本作品の表現を確認することができます。
刺繍誥壁掛東山雨後図
図は是東山一帯を望むもの前に流るるは加
茂の清流なり。左方に架せるは松原橋近く
右方に見ゆるは八坂の塔、祇園の楼門知
恩院の殿堂皆共に松樹の間に認むべく
比叡の髙嶺は遥に模糊として其頂を
見せたり、吁此好景描くに筆墨を以て
しても猶難しとす。今之を丈餘大幅に繍出
し以て筆墨と其妙を争わんとす。全面
雨気未だ全く晴れざる、裡三十六峰自ら翠
色を含み半現はれたる松樹にも、遠近の別
整然として原畫の筆意を失わず、鴨
涯の□(座カ)柳雨を帯びて宛て、縁の糸を
しぼるが如き皆是最も苦心の處。
※カタカナをひらがなに変換し、句読点を追加した。
解説書の「模糊」「筆墨」「全面雨気未だ(略)全く晴れざる」などから推測するに、原画はおそらく筆致を活かしつつも、水気を多く含んだ暈しの印象の強い表現なのでしょう。そうした表現を糸で繍出することに苦慮する様子が本文から垣間見えます。
香嶠考案「六歌仙文様」の友禅裂および絵刷
本製品は、香嶠が考案した六歌仙の図案を用いた友禅裂です。裂には、ベージュと藤色のツートンカラーの背景に、角型にデフォルメされた六歌仙すなわち在原業平、僧正遍昭、喜撰法師、文屋康秀、大友黒主、小野小町とそれぞれのシルエットが配されています。ピクセルアートを思わせる本図案は、現代のわれわれにも馴染み易いのではないでしょうか。
もともとは陶芸家の清水六兵衛や図案研究団体「遊陶園」の間で珍賞されていたもので、同図案をあしらった菓子皿や壺が現存しています。本友禅裂の製作に香嶠が関与していたのかは定かではありませんが、陶芸品が存在するほか、1901(明治 34)年に発行された『図按』第 4巻 31 号(本田雲錦堂)にも掲載されていたことから、様々な資料を参考にして友禅製品の図案を企画していた可能性も考えられます。
その他にも、谷口香嶠の筆と伝わる古画の模本が現存しており、今後調査を進める予定です。
・竹内栖鳳に関する千總現存の資料
友禅軸「宮城を拝して(宮城之図)」(1943〔昭和18〕年製)
本作は、栖鳳が原画を手掛けたことを確認できている唯一の千總製品です。当時の記録によると、陸軍省から注文を受けて友禅額として納められた製品とされています。なお、同様の図案の織物は、前年に髙島屋および西陣織物工業組合により完成され、支那事変行賞陸軍関係者に下賜されました。
千總に現存の少ない栖鳳の関連資料ですが、決算報告書を見る限りで、栖鳳は少なくとも1900(明治33)年のパリ万国博覧会から帰国して以降約10年は千總に出入りしていたようです。その間、何らかの仕事の存在が推測されますが、今後の課題といたします。
・オンラインで閲覧可能な主な参考文献
※書名をクリックすると国立国会図書館デジタルアーカイブにアクセスできます。
『名家歴訪録(上)』黒田譲, 1899年
『名家歴訪録(中)』黒田譲, 1900年
『千九百年巴里万国博覧会出品連合協会報告』巴里万国博覧会出品連合協会残務取扱所,1903年
・その他の主な参考文献
図録『歴史を旅する谷口香嶠』笠岡市立竹喬美術館、2021年
藤本真名美 「谷口香嶠の模写と画譜出版」並木誠士編『近代京都の美術工芸 ―制作・流通・鑑賞―』 思文閣出版, 2019年
図録『竹内栖鳳 破壊と創生のエネルギー』京都市京セラ美術館, 2023年
神崎憲一 『京都に於ける日本画史』京都精版印刷社, 1929年
(文責 小田桃子)