[コラム]千總と近代画家7:久保田米僊 *会員限定*

明治期の千總は、刺繍絵画や友禅製品において数々の受賞を重ねましたが、その華々しい功績には多くの画家の協力が不可欠でした。画家との繋がりは、現在株式会社千總(以下、千總)に所蔵される絵画や友禅裂などの美術工芸品だけでなく、文書でも確認することができます。本コラムでは、シリーズで明治・大正時代の決算報告書類に登場する画家を紹介し、試みに当時の千總または京都の美術工芸業界のネットワークを改めて整理することを目指します(決算報告書類についての説明はこちらをご覧ください。)。

 

第7回は、久保田米僊(くぼたべいせん)です。米僊は、日本画家としてキャリアを始めながらも、記者、文筆家など、多彩な顔を持っていました。千總の当主とは、友禅製品の下絵制作以外でもたびたび関係を持っていたことがわかっています。

 

 

[久保田米僊]

・決算報告書類の掲載年      1881年(明治28)

 

・生没年月日          1852年(嘉永5)2月25日(3月15日)~1906年(明治39)5月19日(享年55歳)

 

・出生地                京都

 

・住所     京都(東洞院錦小路西入る元法然寺町、

           東洞院錦小路上る元竹田町、富小路四条上る)

        東京(芝区新桜田町19番地)など

 

・家族            父 久保田音七

 

・師匠           鈴木百年(沢渡精斎から漢学、神山鳳陽から漢詩を学んだ)

 

・略歴

 料理屋を営む久保田音七の一人息子。幼名を米吉、名を満寛、字を簡伯、別号を塵芥頭陀、錦隣子などとした。幼少より絵を好み、白紙、白壁があれば絵を描き散らしたという。画工志望に対する父の反発にあいながらも、鈴木百年のもとで研鑽を積み、1873(明治6)年の第2回京都博覧会では席上揮毫を行った。画家としては1884(明治17)年の第2回内国絵画共進会展において〈朧月夜〉が銀賞を受賞したことで、その名が広く知られることとなった。その後は、1887(明治20)年に明治宮殿の杉戸絵を手掛け、また第4回パリ万国博覧会(1889)に出品した〈水中遊魚〉で金賞を獲得するなど、画家としての実力をつけていった。他方で、挿絵提供や絵画雑誌の刊行などの、出版活動にも深くかかわっている。第4回パリ万国博覧会の際は渡仏し、現地の様子を新聞で連載する他、道中の旅行記を『米僊漫遊画乗』として発表した。さらに1890(明治23)年には、徳富蘇峰の誘いで東京の国民新聞社に入社する。1894(明治27)年には、同社の派出員として日清戦争に従軍し、戦況を絵で記録した『日清戦闘画報』を刊行している。そのほかにも、画譜や料理本など様々な本を刊行。失明する晩年に至るまで、その精力的な文筆業は続いた。

 また米僊は、京都の美術工芸業界全体の、知識や技術力の底上げにも力を尽くした。特に、1878(明治11)年に同じ画家である幸野楳嶺、望月玉泉、巨勢小石らとともに、京都府画学校の設立を求める建議書を提出し、1880(明治13)年の開校から翌年まで教員として出仕した。さらに、1890(明治23)年には、京都美術協会の創設に携わる。同協会は、絵画、染織、金工、漆工など、京都一円の美術工芸家の連携と産業の活性化を目指した団体で、最盛期には1000名以上の会員が所属していた。

 

・主な絵画作品

大楠公・義貞公誠忠之図〉(1882)(石川県立美術館) 

〈朧月夜〉(1884)第2回内国絵画共進会展出品

〈柘榴金衣百子・薔薇花〉(1887)(宮内庁)明治宮殿杉戸絵

〈水中遊魚〉(1889)第4回パリ万国博覧会出品 金賞を獲得

新島襄先生臨終図〉(1890)

〈鷲図〉(1893)シカゴ・コロンブス世界博覧会

郵便現業絵巻 上巻〉(1893)シカゴ・コロンブス世界博覧会出品のために制作された

 

・主な刊行物

絵島之霞』田中治兵衛, 1887

米僊漫遊画乗』(全二編)田中治兵衛, 1889-1890

日清戦闘画報』(全十編及び凱旋編一編)大倉保五郎, 1894-1895

日なみがた』秋山武右衛門, 1901 

 

・千總の所蔵資料、関連資料

友禅裂〈大津絵文様〉1幅, 縮緬地・友禅染, 1891(明治24)年

大胆に取っ組み合う人と鬼の背後に、たくさんの見物人と大きな鐘。触発されたのか、奥でも相撲が始まったようです。本作は、大津絵をあらわした、賑やかで微笑ましい友禅裂。各人物や持ち物をよく見ると、彼らが鬼の寒念仏や、釣鐘弁慶、鎗持奴、藤娘、寿老と大黒など、大津絵ではお馴染みの人や鬼であることに気が付きます。しかし、撞木を振りかざし膝をついている鬼や、ほったらかされた弁慶の七種道具と鐘など、定番の画題にアレンジを加える、パロディ表現になっています。
一見すると、紙に描かれた淡彩の墨画のようですが、染めによりあらわされています。軽妙な略筆のタッチと、和紙に塗ったかのような淡く暈しのきいた色などからは、染色に係る職人の下絵に対する深い理解と細やかな染の仕事が想像されます。
久保田米僊は1894(明治27)年に「大津絵十種」(京都府)を制作しています。本作の表現とは異なりますが、大津絵に関心を寄せていたことが、染織品からもうかがえます。

 

〈鳥毛立女屏風摸本〉2幅, 紙本著色,「米僊」印

正倉院宝物である「鳥毛立女屏風(とりげりつじょのびょうぶ)」のうち、第 3扇と第 4 扇を写した模本です。いずれもオリジナル作品よりもひと回り程度小さく、また装束の文様や樹木、色など復元された部分もありますが、忠実に筆線を写し取ろうとする姿勢がうかがえる作品です。

米僊は学習のひとつとして古画模写を推奨していたと言われています。千總には本作の他に米僊筆と伝わる国宝「玉虫厨子」の模本が現存しており、本作を含めて真筆かどうかは慎重に判断する必要はあるものの、こうした模本が存在することに、そうした米僊の絵画制作に対する姿勢が垣間見られます。

 

第3扇模本 第4扇模本

 

『閣竜世界博覧会美術品画譜』大倉書店、1893(明治26)年

所蔵作品ではありませんが、シカゴ・コロンブス世界博覧会への千總の出品物の模写が、米僊の刊行した『閣竜世界博覧会美術品画譜』第2集(大倉書店、1893)に収録されています。

紙面見開きに、針葉樹に草花の茂みを表した作品の模写が掲載され、傍らには「日本 西村惣左衛門刺繍 対聯 黒繻子金糸縫 工藝館陳列」とのタイトルが付されています。

久保田米僊 画『閣竜世界博覧会美術品画譜』第2集,大倉書店,明治26年11月23日. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/850581 (参照 2023-04-10) 

 

なお、米僊が模写した出品物は千總に現存していませんが、類似した製品の写真がのこされています。こちらは1889(明治22)年の第4回パリ万博への出品物とされるもので、屏風仕立ての刺繍作品です。

 

アルバム「西暦千八百八十九年佛国萬国大博覧会出品写」
       

 

ところで、米僊と千總の12代当主・西村總左衛門は、京都の美術工芸業界における団体活動やビジネスの場で、たびたび関わりがありました。広く知られたものでは、米僊等が建議して設立された京都府画学校に12代西村總左衛門は商議員として、設立に尽力した京都美術協会に12代西村總左衛門は評議員としてかかわりました。また近年の調査では、米僊が書簡を通じて、12代西村總左衛門の英語の通訳士として、新居三郎を紹介していたことがわかっています。新居三郎は、1897(明治30)年に東京で初めての映画(活動写真)の上映会を行う新居商会の代表を務めた人物で、今日の映画の基礎を作ったひとりと言われています。新居三郎が実際に通訳士を務めたかは定かでありませんが、明治時代のネットワークの広がり様、そして様々な側面で協力し合う京都の人々の姿が見て取れます。

 

なお、米僊の息子である久保田金僊からは、米僊亡き後も12代西村總左衛門宛てに年賀状が送られています。未だ見ぬ、久保田家と付き合いがあったのかもしれません。

 

 

・オンラインで閲覧可能な主な参考文献

 

※書名をクリックすると国立国会図書館デジタルアーカイブにアクセスできます。

久保田米僊『米僊画談』松村三松堂, 1902

久保田米僊『米僊画帖』小川一真, 1900

黒田譲『名家歴訪録(上)』, 1899 

内国絵画共進会審査報告 附録』農商務省,1883

 

・その他の主な参考文献

星野桂三、星野万美子『久保田米僊遺作展 : 明治日本画の鬼才』星野画廊, 2014

森光彦「久保田米僊研究 : 明治期京都画壇における日本画と近代社会の関係」『鹿島美術研究(年報第34号別冊)』 公益財団法人 鹿島美術財団, 2017

神崎憲一 『京都に於ける日本画史』京都精版印刷社, 1929 

図録『明治 150 年記念企画展 京都画壇の明治』京都市学校歴史博物館, 2018

 

 

(文責 小田桃子)