[コラム]千總と近代画家5:岸九岳、岸派の画家 *会員限定*

明治期の千總は、刺繍絵画や友禅製品において数々の受賞を重ねましたが、その華々しい功績には多くの画家の協力が不可欠でした。画家との繋がりは、現在株式会社千總(以下、千總)に所蔵される絵画や友禅裂などの美術工芸品だけでなく、文書でも確認することができます。本コラムでは、シリーズで明治・大正時代の決算報告書類に登場する画家を紹介し、試みに当時の千總または京都の美術工芸業界のネットワークを改めて整理することを目指します(決算報告書類についての説明はこちらをご覧ください。)。

 

第5回は、岸連山の息子で、岸派の日本画家の岸九岳(きしきゅうがく)です。九岳と千總とのビジネス上の関係は定かではありませんが、当コレクションには九岳の筆による正倉院宝物の摸写画帖が2件現存しています。本コラムでは、九岳の活動と画帖についてご紹介します。また、決算書には岸派の画家であり、岸竹堂の血縁者でもある、岸錦水、岸米山の名前も記されていますので、可能な範囲で、彼らの活動を振り返ってみたいと思います。

 

[岸九岳]

・決算報告書類の掲載年      1884年(明治17)、1886年(明治19)、1887年(明治20)

・生没年月日          1845年(弘化2)5月6日~1921年(大正10) (享年77歳)

・出生地                京都

・活動拠点など  京都(麸屋町押小路周辺※竹堂は柳馬場押小路

            なお明治17年より上京区守山町、明治25年より新町通丸太町南、

            明治31年頃より愛宕郡北岩倉村にて居住)           

         東京(明治12年より麴町区富士見町2-37、明治33年より牛込區若宮町三十番地、

            大正2年より豊多摩郡千駄ヶ谷町原宿190または豊多摩郡渋谷町上渋谷35にて居住)

・家族                父 岸連山(画家)、義兄 岸竹堂(画家)、妻 民子         

・流派             岸派など

・師匠             岸連山および岸竹堂

・略歴

 京都出身で、岸連山の実子である画家。幼名を熊太郎、名を昌英、字を子華、号を春翠、迎春軒等とした。父連山と、兄である竹堂に師事した。なお、竹堂は連山から実力を認められて岸家に養子入りしたため、九岳とは血縁関係にない。

画業のはじまりは定かではないが、1873年(明治6)の第三回京都博覧会で席上揮毫を行った画家として名を連ねている。他方で、1878年(明治11)頃に内務省勧商局製品図画掛、翌年には大蔵省図案掛として、東京で働いていたようだ。しかし、1880年(明治13)には大蔵省の職を辞して京都府画学校に出仕しはじめ、1891年(明治24)から1894年(明治27)まで絵画科の教諭として勤めた。1893年(明治26)のシカゴ万博には京都市立美術学校として陶器図案を出品している。その後は、1894年に平安遷都紀念祭図案係を任ぜられ、一説には平安神宮の四神旗の図案を起こしたとされる。1899年(明治32)に東宮御所御造営局図画模写及図案掛をつとめ、翌年に東京へ転居した後、1907年(明治40)に栃木県図案調製所技師を拝命した。

管見の限りにおいて、博覧会等における受賞歴は確認できないが、皇族や宮家に関する仕事が散見される。最も知られている作品は、1888年(明治21)竣工の明治宮殿の杉戸絵「木芙蓉図」「枯木に木菟図」であろう。また、父連山が有栖川宮家に仕えたためか、有栖川宮熾仁親王と親交があったようだ。熾仁親王の日記には九岳に絵を依頼する旨の内容が度々記される。1904年(明治37)頃には、熾仁親王の姪御である有栖川宮實枝子女王の絵画教授方を拝命している。

 

・主な作品

〈木芙蓉図〉〈枯木に木菟図〉(1888)明治宮殿常御殿の杉戸絵

※残念ながら昭和20年に焼失してしまったが、小下絵が現存している。

天橋立図・厳島図・松島図〉(19~20世紀)(敦賀市立博物館)

平安神宮大極殿帽額写〉五分一図(1894)(宮内公文書館蔵)

 

〈霞関本邸内の一室〉

有栖川宮熾仁 著『熾仁親王日記』卷四,高松宮家,1936. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1916193 (参照 2023-03-01)

 

・主な著作

『徴古図譜』全2冊 岸九岳・岸鷹次(1881) 

『小学日本画初歩 付録』福井源二郎発行(1894)

 

・千總に所蔵の関係作品、資料

九岳が手掛けたとされる、友禅製品の下絵は現在のところ発見されていない。

しかし、千總には明治・大正時代までに入手した、正倉院宝物の模写画帖が2件現存している。

 

〈御物裂模写〉(附古裂写名称)1889年(明治22)秋 絹本著色

正倉院または法隆寺伝来の裂の摸本30枚が貼り込まれた手鑑帖。

扉絵には墨画淡彩で正倉院正倉があらわされ、左下に九岳の落款が捺される。各紙には多種多様の裂がデザイン画のように配されている。裂は、輪郭線を用いない没骨法を用い、濃彩により模様だけでなく個々の裂の形状や織り組織、ほつれた糸までが丹念に写し取られている。巻末の墨書「己丑小春 九岳岸摹」から、本作が1889年(明治22)秋に九岳によって制作されたことがわかる。

 

 

扉絵

 

 

 

1889年秋より正倉院宝物は、関係者等の観覧者を限定した上で公開されていた。管見の限り九岳の拝観記録は確認できていないが、巻末との時期の一致は何らかの関係を示唆しているのかもしれない。

なお、本作には〈古裂写名称〉および紙片「杉子爵題字」が付属する。前者は各裂の名称が裂の輪郭とともに記された冊子であり、後者の杉子爵とは、のちの正倉院御物整理掛長である子爵杉孫七郎(1835-1920)を意味すると考えられる。

近年の調査により、千總は本作品を1890年(明治23)4月に岸九岳より購入したことが明らかとなった。入手背景などについては、今後の調査が俟たれる。

 

 

〈正倉院御物写〉全二巻 19世紀~20世紀(明治~大正時代)紙本著色

 

 

裂だけでなく鏡や器などの正倉院宝物の摸本を集めた2冊の画帖。

各紙には、宝物図が名称とともにあらわされており、それぞれ37紙および43紙が収録されている。名称は図と同紙または貼付された別紙(題簽)に記されている。全紙のうち、10紙の題簽には、九岳を意味する「岸英」の円印が確認できる。なお、記録から本作は大正2年10月までに千總に収蔵されていることが明らかにされている。

 

 

 

 

 

宝物図は、一部が没骨で描かれているものの、その殆どが輪郭線をひいた上に著色されているようだ。〈御物裂模写〉と比較した場合、筆致がわかる程度に薄くラフな着色や、部分的な着色などをみるに、〈正倉院御物写〉からは実物を眼前にスケッチしたかのような臨場感が感じられる。また、両作品で、裂の形状はほぼ異なるものの、裂の模様や一部のモチーフの組み合わせにおいて共通項が見られる。

 

  

〈正倉院御物写〉(上)と〈御物裂模写〉(下)の右頁とでは、

裂の模様が若干異なるが、間道の裂と帯状の裂の組み合わせが酷似する

 

いずれの作品も裂の様子が詳細に描かれており、特に〈正倉院御物写〉には器や漆工品の異なる面の立面図が描かれていることなどから、実物を横において模写する「臨模」により制作された、もしくはそうした臨模作品を原本に持つ模写であると考えられる。

一説には、九岳が1881年(明治14)に発行した『徴古図譜』に、自身が臨写した正倉院宝物図が掲載されていると言われている。『徴古図譜』の所在を発見できていないため、両作品との関係性は未だ未検証だが、今後の調査が俟たれる。

明治期の千總は正倉院宝物をモチーフにした友禅製品を数多く発表している。

写真が普及していない時代、また正倉院宝物も広く一般に公開されていない時代において、画工や職人の理解を深めながら製作するためには、こうした画譜が重要な役割を果たしていたことは、想像に難くない。

 

友禅染裂〈正倉院正羽文様〉1904(明治37)

 

 

[岸派の画家]

決算書には、岸竹堂の長男の岸錦水と、長女のかつ子の長男である岸米山の氏名も記されている。簡易的ではあるが、以下に両者の略歴を紹介する。

 

岸錦水

生没年月日:不明(若いうちに夭折か)

決算報告書類の掲載年:1891年(明治24)

略歴など:岸竹堂の子。出生地や生没年など詳細は明らかではない。髙島屋に出入りするなど、友禅図案家として知られている。千總には残念ながら、錦水作として伝わる図案や作品などは見つかっていない。

 

岸米山

生没年月日  : 1873年(弘化2)5月6日~1910年(明治43) (享年38歳)

決算報告書類の掲載年:  明治40~45年、大正2~4年

※米山の死後は貸付金の項目のみに記載

略歴など:京都出身、岸竹堂の孫。京都市上京区高倉通二條北入ルに居を構えた。名を隆、字を篤、号を米山とした。雑誌『新画苑』や『美術及美術工芸』(いずれも山田芸艸堂発行)などには、米山の筆による虎図や花鳥画、歴史画などの日本画が掲載されており、日本画家として精力的に活動していた様子が窺える。

決算書からは、米山が職工として千總と取引していたことを読み取ることができる。千總には米山に関する資料も未だ発見されていないが、下絵や作品または何らかの技術の提供があったものと推測される。

両者といかなる関係があったかは定かでないが、岸竹堂本人だけでなく、彼の血縁者とも関係を持っていたことは非常に興味深い。

 

 

 

・オンラインで閲覧可能な参考文献

※書名をクリックすると国立国会図書館デジタルアーカイブにアクセスできます

成瀬麟, 土屋周太郎 編『大日本人物誌』八紘社, 1913

農商務省博覧会掛(編)『内国絵画共進会出品人略譜 第2回 』国文社, 1884

京都市立美術工芸学校一覧』京都市立美術工芸学校,1908 

 

 

・その他の主な参考文献

『京都美術協会雑誌』4号, 1892 および 75号, 1898  および97号, 1900

神崎憲一 『京都に於ける日本画史』京都精版印刷社, 1929 ※冒頭に九岳の写真が掲載されている

『京都画壇 岸派の展開』敦賀市立博物館, 2005

『集古』昭和17年4号(184号), 集古会, 1942

『閣竜世界博覧会記事』 閣竜博覧会記事協会, 1892

 

 

(文責 小田桃子)