[コラム]千總と近代画家3:川辺御楯、森春岳*会員限定*

明治期の千總は、刺繍絵画や友禅製品において数々の受賞を重ねましたが、その華々しい功績には多くの画家の協力が不可欠でした。

画家との繋がりは、現在株式会社千總(以下、千總)に所蔵される絵画や友禅裂などの美術工芸品だけでなく、様々な文書資料でも確認することができます。本コラムでは、シリーズで明治・大正時代の決算報告書類に登場する画家を紹介し、試みに当時の千總または京都の美術工芸業界のネットワークに対する理解を改めて深めることを目指します(決算報告書類についての説明はこちらをご覧ください)。

第3回は、近代大和絵の画家である川辺御楯と、岸派の画家の森春岳です。千總に現存する資料から、御楯は友禅下絵の提供、春岳は本画の制作と古美術品を通じた交流を行っていたことがわかっています。

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川辺御楯

 

・決算報告書類への掲載年      1881年(明治14)

 

・生没年月日          1838年(天保9)(または1837年)10月(または1月)29日~1905年(明治38)7月24日(享年69歳)

 

・出身地                    筑後国山門郡柳河上町(現・福岡県柳川市)

 

・京都市内の住所      不明(1870〔明治3〕~74年、1877~1881年頃に在京か)

          その後は東京の浅草などを拠点に活動する

 

・家族       父 川辺(または古賀)紋右衛門(柳川藩士※諸説あり、法眼狩野映信の門人)、     

          ※1859年(安政6)で家督を相続

          母、妹、妻

          長男 白鶴(号 九皐)、次男 佐見(号 筑水)、三男 彪(号 旭陵美楯)

              

・流派       土佐派など

 

・師匠          父、1849(嘉永2)年頃:三谷友信(久留米藩御用絵師)の三男・三谷三雄、

          明治時代以降:土佐光文(大和絵)、狩野永悳(狩野派)

 

・略歴

 

 筑後国柳川(福岡県柳川市)出身の日本画家。川辺紋右衛門の長男として生を受けた。名は源太郎、号は鷺外、花陵、御楯など、別号は墨流亭、都多之舎、後素堂などとした。幼少期には父や久留米藩御用絵師の三谷三雄に師事し、狩野派や土佐派などを学んだとされる。復古思想に影響を受けて脱藩し諸国を遊歴し、高杉晋作や村田蔵六などと交流した。1862(元治1)年には藩へ復帰し、1868(明治1)年に上京して太政官に出仕し、国学を大国隆正から学ぶ。1870(明治3)年に、神祇少禄官となり有職故実の調査を行った。この頃に土佐派の土佐光文から絵を学んだ。1874(明治7)年に、伊勢神宮の権禰宜に任命されるも1877(明治10)年には引退し、画業に専念する。1881(明治14)年から拠点を東京に移し、第1回内国絵画共進会(1882〔明治15〕)に出品して以降、皇室からの御用を受けるなど近代大和絵の画家として活躍した。画塾を開いて弟子をとる他、1884(明治17)年には滝和亭、川端玉章らとともに東洋絵画会を結成し以後、東洋絵画会や日本美術協会を主な活動の場とした。有職故実や国学の知識に裏打ちされた歴史画を多数生み出した。

 

代表作は、〈尹大納言叡山行図〉(第1回内国絵画共進会・銅賞・1882)、明宮御殿御客間〈仁徳天皇望炊煙図〉〈宇多天皇使金岡画賢聖障子図〉(1884)、明治宮殿杉戸絵〈正成詣笠置〉〈時宗騎射〉〈養老樵父〉〈鴉反哺〉(1887)(宮内庁蔵)、新皇居へ献納〈尹大納言赴比叡山図〉(1888)(福岡県立美術館蔵)、〈衣笠合戦金子兄弟奮戦之図〉(1892)(東京大学大学院総合文化研究科・教養学部美術博物館蔵)、〈南北朝戦闘図〉(シカゴ万国博覧会出品・1893)(東京国立博物館所蔵)、〈日野阿新丸報父讐図〉(日本美術協会秋季展・二等賞銀牌・1895)など。

 

御楯は1877(明治10)年以降、画業に専念し、京都で陶器や友禅の下絵を描いて生活した。千總には、御楯の下絵と伝わる1875(明治)年製の友禅裂〈岩波に雲龍〉が遺されているほか、1881年の決算書に名前を確認できる。管見の限り、明治15年以後の交流の有無は定かではないが、画家として大成する前に千總で御楯は筆を揮っていた。

 

 

川辺御楯下絵 友禅軸〈岩波に雲龍〉(明治8年製)

 

主な参考文献

明治十五年内国絵画共進会審査報告. 附録』農商務省, 1883

図録『川辺御楯と近代大和絵の系譜』福岡県立美術館, 1994

『東洋絵画叢誌』東洋絵画会叢誌部, 第1集(1884), 第6集(1885)

大植四郎(編著)『明治過去帳〈物故人名辞典〉』(新訂版初版)東京美術, 1971

 

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森春岳

 

・決算報告書類への掲載年   1897年(明治30)

 

・生没年月日          1836(天保7)年11月25日~1917(大正6)年5月(享年82歳)

 

・出身地                     加賀国金沢(現・石川県金沢市)

 

・京都市内の住所       上京区守山町、上京区仲保利町、上京区御池通高倉東入御所八幡町など

 

・家族       父 森徳兵衛 

 

・流派       岸派

 

・師匠           (1836年〔天保7〕)頃に岸派の清水玉洲、その後(1853年〔嘉永6〕)頃に岸連山    

                     

・門人        岸竹堂、巨勢小石など

 

 

 金沢出身の岸派の日本画家である。名は政(正)、字は素道、号を春岳とした。9歳のときに、岸派・森西園の門人である清水玉洲の門下となる。齢17で上京し、岸連山の下で研鑽を積んだ。明治天皇即位の際に屏風を献上したとされ、内国勧業博覧会や内国絵画共進会などにおいても数々の褒賞を授与された。1882(明治15)年ごろには京都府画学校に出仕した。出身地の金沢でも活動しており、複数の画家とともに私立絵画講究会を主催した。また、春岳の弟子であった、金沢の実業家の森下八左衛門(和菓子の老舗「森八」の12代目)との交流記録が散見される。春岳は、森下が資材を投じて立ち上げた貿易会社「加賀物産株式会社」の書画の工人として名を連ねたという。

千總の製品に対する下絵の提供の記録は残らないが、作品の領収書または岸竹堂〈月下猫児図〉の蓋裏の春岳による墨書「同窓岸竹堂翁傑作也」など、美術品を通じた交流をいくつか確認できる。

代表作は〈瀑布図〉(第3回内国勧業博覧会・褒状・1890)、〈杉鷲図〉(シカゴ万国博覧会・1893)、〈保津川真景〉(第4回内国勧業博覧会・褒状・1895)、〈谷熊図〉(全国絵画共進会・4等・1897)など。

 

 森春岳〈兎〉1915(大正4)年春

[款]乙卯春陽試筆 八十翁春岳 「森政」(白文方印)「素堂」(朱文方印) 

 

一羽の兎が岩のそばで佇んでいる。岩の向こうに見えるのは若松だろうか。画面上部にあらわされた空はほんのりと赤く、朝ぼらけを思わせる。遠くを見つめる兎は、朝陽に心を奪われているのかもしれない。

軽妙な筆致で描かれた紙本著色作品。落款から本作は1915年に描かれたことがわかり、また同年は卯年であり、「試筆」と記されることから、新春に因んだ作品と考えられる。

本作は西村總左衛門に宛てたものかは定かでない。他方で文書の中には、「蛭子尊図」の「潤筆料」に対する春岳から西村總左衛門に宛てた領収書が現存していることから、両者には作品を通じて交流していたと推測される。

 

 

西村總左衛門宛の領収書

「無地金屏風一双/松鶴之図/杉鹿之図」を150円で買い取っている。金地の松鶴之図および杉鹿之図の一双、もしくは無地の金屏風一双と松鶴之図および杉鹿之図の、計3種類の作品を意味するかは定かでない。しかし、千總には「松鶴之図/杉鹿之図」と共通する画題の作品、岸駒〈鶴鹿図〉が現存している。本作は金箔地に墨で表現されており、六曲一双の屏風形式に仕立てられている。右隻には松樹下で水辺に佇む二羽の鶴、左隻には杉林の岩陰で休む番の鹿が描かれている。岸派の祖である岸駒の作品を、春岳が所持していても不思議ではないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

岸駒〈鶴鹿図〉(右隻)

 

 

 

岸駒〈鶴鹿図〉(左隻)

 

主な参考文献

石川県『石川県史』第4編, 1931

日置謙『加能郷土辞彙』金沢文化協会, 1942

成瀬麟, 土屋周太郎(編)『大日本人物誌』1913

日本現今人名辞典』日本現今人名辞典発行所, 1903

 

神崎憲一『京都に於ける日本画史』京都精版印刷社, 1929

『森下文庫目録』金沢市立玉川図書館 近世史料館, 2022

『内国絵画共進会審査報告. 附録』農商務省, 1883

『第三回内国勧業博覧会褒賞授与人名録』第三回内国勧業博覧会事務局, 1890

『第四回内国勧業博覧会褒賞授与人名録』第四回内国勧業博覧会事務局, 1895

 

(文責:小田桃子)