[コラム]千總と近代画家1:岸竹堂*会員限定*

明治期の千總は、刺繍絵画や友禅製品において数々の受賞を重ねましたが、その華々しい功績には多くの画家の協力が不可欠でした。

そして、両者の繋がりは、千總に所蔵される絵画や友禅裂などの美術工芸品だけでなく、文書でも確認することができます。そこで本コラムではシリーズで、千總所蔵の文書のひとつである近代の決算報告書類に登場する画家を紹介します。

 

千總に現存する近代の決算報告書類は、1876年(明治9)から1879年(明治12)並びに1881年(明治14)から1922年(大正11)までの間、概ね毎年上(前)半期・下(後)半期に分けて作成されたもので、各報告書類の記載項目と名称(「勘定」、「精算表」、「決算報告」など)は年によって異なります。千總は、1898年(明治31)から西店と東店に分かれ、1903年(明治36)に北と南に分かれ、1908年(明治41)に東京支店が設立されましたが、同様の変遷を辿るかのように、決算報告書類の名称の変更または分冊が行われています。報告書類には、各種金額とともに呉服店・百貨店などのクライアント、政治家、画家、職人の氏名が記されています。それは、当時の取引の一部すなわち千總の“ネットワーク”の一側面を私達に教えてくれています。

 

コラムでは、こうした報告書類に記された画家の氏名をもとに、画家を一人ずつ紹介します。具体的には、画家の略歴などのプロフィールとともに、千總に所蔵される主な作品や関連資料をご紹介します。なお、紹介する所蔵品の中には、画家の真筆とするには慎重な検討を要する作品や資料も含まれることが見込まれますが、千總の中でいかに伝えられてきたかも含めて、画家に関する重要な情報であると考え、可能な範囲で掲載したいと考えます。こうした連載を通して、近代京都の商家のひとつである千總と画家の関係について、改めて理解を深めることを試みていきます。

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第1回は、千總の多くの友禅製品の下絵を手掛け、他方で12代目当主・西村總左衛門(三国直篤、1855~1935)の絵の師でもあったとされる、岸竹堂(きしちくどう、1826~1897)です。

 

・決算報告書類における初出      1879年(明治12)

・生没年月日          1826年(文政9)4月22日~1897年(明治30)7月27日(享年72歳)

・出身地                     近江国彦根藩(現 滋賀県彦根市)

・京都市内の住所       柳馬場押小路北(幕末の1865年頃は丹後に滞在)

・家族              父 寺居孫二郎(彦根藩士)、 兄 寺居友衛門

              妻 素子(岸連山 娘)※1859年(安政6)34歳で岸家の家督を相続

・流派           岸派(狩野派を経て)

・師匠           狩野派の中嶋安泰(1836年〔天保7〕以降)および狩野永岳(1842年〔天保13〕頃)を経て、岸派の岸連山に師事(1843年〔天保14〕以降)

・門人        森春岳、巨勢小石など

・略歴

 彦根出身の日本画家で、岸派の4代目。森寛斎、幸野楳嶺とともに近代京都画壇の大家のひとりに数えられる。名は昌禄、字は子和で、幼名を米吉、通称を八郎といい、竹堂、残夢、真月、虎林、如花を号とした。彦根および京都にて狩野派に学んだ後に、岸派の岸連山に師事し、その実力を認められて岸家の家督を継いだ。有栖川宮家に出仕した他、二条城本丸御殿や京都御所、皇居造営に際して障壁画を手掛けるなど、京都を代表する画家として活躍した。また京都府画学校の商議員や、各種展覧会で審査員を務めるなど、画壇の後進育成にも心血を注いだ。1896 年(明治29)、帝室技芸員に任命される。

千總とは、明治維新の前後に画家の仕事が激減した苦境の時代に、内貴甚三郎の紹介により、友禅製品の下絵の制作を通じて関係を持ったとされる。他方で12代西村總左衛門の絵の師でもあり、その父・三国幽眠とも交流していた。

桜などの花鳥画や牛などの動物画を得意とし、中でも岸派の家芸である虎図の名手であった。風景画にも名品とされるものが複数現存しており、その随所に西洋画法からの影響が垣間見える。回顧録においても弟子に「発明者」と称され、新しい技術・材料を取り入れた先駆的、先進的な画家である。主な受賞は、妙技銀牌〈嵐山図〉京都博覧会(1880)、出品賞牌〈虎図〉シカゴ万国博覧会(1893)、2等銀牌〈猛虎図〉第三回内国勧業博覧会(1890)など。

 

・主な代表作 

〈秋景図〉(1847)二条城本丸御殿襖絵 

〈伯牙鍾子期〉(1854)京都御所小御所杉戸絵(現存作品は模写) 

〈虎図〉、〈蓮池白鷺図〉など(1862)天寧寺(京都市)襖絵

〈菊に雀図〉、〈仙境図〉など(1868~1870)玉田寺(京都府与謝野郡)襖絵

〈虎図〉(1893)シカゴ万博出品(東京国立博物館所蔵)

〈孔雀図〉(1895)東本願寺阿弥陀堂襖絵 

〈谷川に熊図〉(1883)京都御所御常御殿障壁画

〈池辺蛍〉(1886)皇居明治宮殿小襖

 

 

次に株式会社千總に現存する、主要な作品・資料をご紹介します。

既に当ホームページに掲載している作品については、作品名をクリックすると、該当するページにアクセスすることができます。

 

・絵画

〈大津唐崎図〉 八曲一双(1875) フィラデルフィア万博出品

〈梅図〉 八曲一双(1875頃)

※渡米前に撮影したと思われるアルバム「米國万博出品写真集」が現存しており、大津唐崎図ならびに梅図(千總蔵)の写真が綴じられている。撮影された作品の状態や、現存する保存箱の墨書から、大津唐崎図の裏面には梅図が貼り付けられていたと推測される。

 

 米國万博出品写真より写真:大津唐崎図のうち左隻(左)、写真:梅図のうち右隻(右)

 

〈猛虎図〉 六曲一双(1890)第3回内国勧業博覧会出品

〈月下猫児図〉 一幅(1896)第9回日本美術協会秋季展覧会出品

〈牛馬図〉 八曲一双(1895頃)右隻に雪原を駆ける2頭の馬、左隻に桜と思しき樹下に佇む3頭の牛が描かれた屏風作品。荒々しい筆遣いで牛馬の体躯が表される一方で、木の枝や花は繊細に描き出されている。画面中央付近に配された牛馬はそれだけでも大胆だが、蛇腹折りの屏風で鑑賞してこそ、重量感と迫力がより一層伝わってくるようだ。背景には、大胆な刷毛仕事に加えて微細な砂子が蒔かれており、静かながら奥行のある空間が表現されている。第4回内国勧業博覧会への出品を予定したと考えられている作品。

 牛馬図(右隻)

 

・染織品

友禅裂〈孔雀に花〉(1874)

友禅裂 〈雲波に龍〉(1890)

 

・美術染織品

〈月に髑髏 舞妓に桜〉 対幅(1890)

 

・下図

〈模本沈南蘋花鳥動物図〉 全13幅(1874~1878頃)

〈下図 虎と鷹図〉  一幅(1895頃)

〈岸印裾模様雛形〉 一冊(明治時代)

着物の裾模様の雛形図が綴じられた手鑑帖。花鳥、遠山など様々な模様の雛形が収録されており、各図は渇筆で細やかな筆遣いの墨画淡彩により描かれている。内1紙には「岸竹堂之筆」の墨書が存在し、また西村總染織研究所が1943年(昭和18)に発行した「友禅染技術保存に関する陳情書」において本作の作者が岸竹堂および榊原文翆であると記されている。竹堂の真筆かどうかについては更なる検討を要するが、竹堂との何らかの関係性が示唆される作品。

 

 岸印裾模様雛形 月下の秋山に鹿 画面左下には当時の千總のハンコ(左)柴を頭上にのせた大原女(右)

 

 

 岸印裾模様雛形 「岸竹堂之筆」との墨書が記された1紙

 

本コラムを作成するにあたっての主な参考文献を、以下にご紹介します。近年は、図書館や美術館のアーカイブ整備が進んでおり、所蔵館に配架されているものだけでなくオンラインで閲覧できる資料が増加しています。本コラムで、竹堂についてさらに調べられたい方はご活用いただければ幸いです。

 

オンラインで閲覧可能な参考文献

※書名をクリックすると国立国会図書館デジタルアーカイブにアクセスできます

『竹堂画譜』山田芸艸堂、1902 

『竹堂画譜 続編』山田芸艸堂、1903 

黒田天外『名家歴訪録』上編1899 

 

その他の主な参考文献

大澤芳太郎「岸竹堂翁伝」(『京都美術協会雑誌』50号、1896)

土居次義「岸竹堂に就いて―竹堂と洋画の関係」(『日本美術工芸』45号、1947)

明石染人(談)「竹堂・景年の友禅下絵と当時京都染織産業の状況を語る」(『艸美』14号、1954)

関千代「皇居杉戸絵について」(『美術研究』264号、1969)

大橋乗保「岸竹堂考」(『人文』20号、1972)

大橋乗保「玉田寺における岸竹堂の障壁画」(『日本美術工芸』513号、1981)

村上文芽『近代友禅史』芸艸堂、1927

豊田豊 (編)『岸竹堂傳』荘人社、1932

図録『特別展 近代京都画壇の夜明け 岸竹堂』滋賀県立近代美術館、1987

 

(文責:小田桃子)