
京都のまちと西村家
The City of Kyoto and the Nishimura Family
概要Overview
西村家は屋号を「千切屋」とし、弘治年中(1555-58)以降、室町三条界隈を拠点にしてきました。元禄時代には百余軒の店が千切屋だったとされる程に一門は隆盛を極め、地域の運営に携わりました。1872年には、西村總左衛門家の12代当主に、儒学者の三國幽眠の三男・直篤を迎えます。12代西村も行政や京都画壇と協働し、さながらオール京都の様相を呈して、京都の染織業界の発展や美術工芸教育の拡充を行います。常に地域と深い関係を築いてきた西村家のくらしに注目します。
The Nishimura Family has been conducting business under the trade name Chikiriya in the Muromachi-Sanjō district of Kyoto since the Kōji period (1555-58). By the Genroku period (1688-1704), the family had prospered to the extent that there were over 100 shops operating under the Chikiriya name, and the family was involved in the administration of the neighborhood. In 1872, Naoatsu (直篤), the third son of prominent Confucian scholar Mikuni Yūmin (三國幽眠), became the head of the family as Nishimura Sōzaemon XII. Under his leadership, the family collaborated with the Kyoto government and art circles, expanding and developing the textiles industry and the education in arts and crafts. Thus, the Nishimura family always kept a close relationship with the local community.
所蔵品の紹介
- 千切屋おぼえ
- 千切花の図
- 取為替申一札之事
- 売渡申覚
- 請取証文
- 御倉町地籍図
- 写真 12代西村總左衛門
- 御殿文様打掛(写真 13代西村總左衛門夫人)
- 岩に松図
- 写真 西村總左衛門商店(南店)
- 蘭石図
- 柴田勝家図
- 写真 株式会社千總旧本社棟
- 書 信義為基
- 書 君子之徳風
- 達磨図
写真をクリックすると拡大表示します。
![]() |
売渡申覚 書簡1枚 / 紙本墨書 / 明治4年(1910)年1月 / 20.6×26.8 (cm) 当主の西村惣(總)左衛門が「則光」の脇差と、およびその他の柄や鐔や柄など刀の装飾的な部分を、金子6両で購入した際に、西村与左衛門と取り交わした証文である。江戸時代でも脇差の帯刀は町人階級にも許されていた。 |
---|
![]() |
請取証文 書簡1枚 / 紙本墨書 / 江戸時代後期 後藤田南渓から西村惣左衛門に宛てた書状で、画料や材料などに関する金銭の請取証。本証文に捺された印は、若干の仕様は異なるものの、後藤田南渓筆〈千切花の図〉の印と共通するものがあり、本書簡の筆者と「千切花の図」の筆者が同一人物である可能性が高い。 |
---|
|
御殿文様打掛(写真 13代西村總左衛門夫人)
装束1領 / 萌葱羽二重地、友禅、摺疋田、刺繍 / 大正2(1913)年 / 打掛175.0×62.5 (cm) 文様は裾に御殿を配して、垣、小川に掛かる橋、庭園に咲き競う菊、牡丹、松、桜、橘、楓、八つ橋に杜若等の四季の花は源氏物語や伊勢物語を彷彿させる。施行は繊細な糸目糊に多彩な友禅、多色の摺疋田、刺繍の技法を駆使して仕上げている。明治時代後期、当時の高度な技術を持つ職人により染上げられた豪華絢爛な婚礼衣装の打掛である。明治時代の友禅染を代表する打掛の逸品。高島屋飯田家より輿入れした13代西村總左衛門夫人の為に誂えたもので、着用した夫人の当時の写真も残っている。 |
---|
関連記事
準備中