特別鑑賞会・講演会 「千總と円山応挙-老舗のパトロネージ-」千總コレクションと共に、日本文化の未来を考える第1回
特別鑑賞会・講演会「千總と円山応挙-老舗のパトロネージ-」
千總コレクションと共に、日本文化の未来を考える第1回
講師 狩野博幸
日時 2017年9月21日(木) 午後3時~午後4時半
場所 千總本社ビル5階ホール
千總は、絵画や染織品など資料とものづくりのための技術を、先人より大切に受け継いできました。千總文化研究所は、それらを社会的背景や歴史的意味からひとつひとつ紐解くことが、日本文化の未来に繋がると考えています。
シリーズ第1回は千總文化研究所の設立基調講演として、日本近世美術史の第一人者である狩野博幸先生をお迎えしました。重要文化財「保津川図屏風」(円山応挙)を題材に、芸術を育てるものは何か、表現とは何か、京都の町に根ざす文化とともにお話しいただきました。
円山応挙「保津川図屏風」右隻
京の町衆の誇り
京都の祇園祭は屏風祭と呼ばれます。それは歴史的に京都の商工業者である町衆が祇園会に屏風会という役割を持たせていたためです。経済的に豊かな大店の商人の家には、絵師が頻繁に出入りし、そうではない商人たちも講を作って資金を集め作品を購入しました。町衆は、屏風を飾るだけでなく屏風を見にきた人々を酒肴でもてなしました。多くの人々が遠方からやってきて、祇園祭の山鉾だけでなく屏風を見ることを楽しみにしていました。屏風を持っている、屏風で客をもてなすことができる、ということが京の町衆の誇りでした。
「祭りの日 屏風合の判者かな」 『太祇句選後編』
俳人の炭太祇は、祇園祭に訪れた人々が町の家々に飾られている屏風を見て回っては、どの屏風が素晴らしいか、批評しあっている様子を句に読んでいます。
文化人ではない一般の人も、名品を見る機会があり目が肥えていた。そうした風土が京の町の文化全体を底上げしていたのではないか、と狩野先生はいいます。
円山応挙「保津川図屏風」左隻
芸術家のつながり
上田秋成が蕪村や呉春と親密であったように、詩人や随筆家と絵師といったジャンルの異なる芸術家同士が深いつながりを持つことは珍しくありませんでした。また若冲にとっての大典和尚や売茶翁のように、社会的地位のある文化人が、絵師を支持することで精神的なパトロンとなっていたようです。応挙にとっては、六如でした。中国の詩を模倣するのではなく、日常にあることをありのままに表現する詩を生み出した六如。詩人として、新しい境地を切り開いた六如に、応挙はシンパシーを感じていたのではないか、と狩野先生はいいます。
応挙はジャクソン・ポロック?
写生を追求したことで知られる応挙。もともと絵を作るための材料とされていた写生を、応挙は絵そのものが写生としました。
狩野先生は、異論が出ることと思いますがと前置きした上で、応挙の芸術を次のように展開されました。
―中国の絵画からの模倣や引用ではない、文学でも音楽でも表現できないものを、絵は表現しなければならない、と応挙は考えた。応挙は写生を求めたのは、絵は絵だけで自立するためである。ピカソにはまだ文学がある。応挙はジャクソン・ポロックのような純粋絵画を求めていたのではないか。この時代、応挙ほど深く考えた人物はいないー
会場では、「保津川図屏風」左右の隻を向かい合わせに展示し、来場者は両側を屏風に挟まれるような形で着席いただきました。
一双の屏風は、左右を横並びに展示するのが一般的ですが、あえて向かい合わせで鑑賞する理由とは?
千總に伝わる秘話に、「保津川図屏風」の知られざる魅力が隠されていました。
◇本講演会の全文は、会員ページ内「発行物アーカイブ」よりご覧いただけます。
【講師】
狩野博幸(かの・ひろゆき)
1974年、福岡県生まれ。九州大学大学院博士課程中退(日本近世美術史専攻)。京都国立博物館美術室長・京都文化資料センター長、同志社大学文化情報学部教授を歴任。専門は桃山絵画と浮世絵を含む江戸絵画。狩野派・長谷川派・琳派など18世紀京都画派の作品と伝記を研究。主な著書に『もっと知りたい曽我蕭白』(東京美術)、『新発見 洛中洛外図屏風』(青幻舎)、『狩野永徳の青春時代 洛外名所遊楽図屏風』(小学館)、『反骨の画家 河鍋暁斎』(新潮社)、『若冲-広がり続ける宇宙』(角川文庫)、『江戸絵画の不都合な真実』(筑摩選書)などがある。博物館時代の1995年「没後200年記念円山応挙」展を担当した。
*講師のプロフィールは講演会当時のものです。
◇「保津川図屏風」については、当サイト内「千總文化について」有形文化財ー「近世絵画コレクション」にて解説しています。
https://icac.or.jp/culture/p_collection/#i01