特別鑑賞会・講演会「千總が伝える地域の記憶」

[シリーズ:京都のまちの中の三条室町]第3回特別鑑賞会・講演会「千總が伝える地域の記憶」

講師:西山剛氏(京都文化博物館 学芸員)

日時:2023年12月21日(木) 14:00~15:40
会場:千總ビル5階ホール

 

 

 創業以来460余年、三条室町で暖簾を掲げてきた千總には、この土地や建物、行事など町に関係する資料が遺されています。特別鑑賞会・講演会 シリーズ〈京都のまちの中の三条室町〉では、そうした町の歴史の一端を映し出す資料を通して、千總と地域のいとなみへの理解を深めます。

 京都市中京区に位置する御倉町(御倉町)は、平安時代には皇族や公家が邸宅を構え、鎌倉時代以降は一貫して商業域として栄えました。御倉町が祇園会においては少将井神輿を舁く駕輿丁(かよちょう)たちを出す轅町(ながえちょう)としての役割をもち、また「やうゆう山」を出したとも伝えられているのも、御倉町が経済的に卓越した地域であったことを物語っています。
千總の前身とも言える千切屋は、このように京都でも屈指の町勢を誇る御倉町に拠点を置き活動してきました。千切屋の法衣商としての側面は知られていますが、その他にも土倉として、公家の家来として、朝廷の役人としての姿をもちます。
シリーズ第3回となった本会では、永らく中世以降の京都の地域共同体について研究され、2020年に「町のちから 三条御倉町文書の世界」展を企画された西山剛氏(京都文化博物館)をお迎えし、千總に遺された古文書を通して室町時代より築かれてきた千切屋と三条御倉町地域の関係をひも解きながら、京都の地で培われた町と人との豊かな関係をたどりました。

 

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はじめに ― 千總と三条室町の関係とは

 

 本日のテーマは、千總(敬称略 以下同様)にとっての三条室町周辺地域、また逆に地域にとって千總はどのような存在であるかを探ることにあります。両者の視点が交差するところに、千總の歴史的意義が見いだせるのではないか、と思っています。
そもそも1555年の創業以来470年近く、一企業体が同じ場所に在り続けることは傑出した歴史的事実であり、地域に果たす意義は尋常ならざるものがあります。では具体的にそれが何であるのかを探るのが、本日のテーマであります。

 

三条室町周辺地域の歴史的特徴

 〈京都のまちの中の三条室町〉シリーズ第1回では、仲 隆裕先生(京都芸術大学)によって、千總ビルの建つこの地が、平安時代には鳥羽法皇の「三条烏丸御所(三条南殿)」であったことが紹介されました。他にも西三条内裏(三条西殿)という皇族の邸宅や、藤原長実や藤原基隆といった貴族の邸宅も確認されるなど、平安時代の三条室町周辺は、朝廷と密接に結びついた政治的な位置付けがなされた場所でした。
ガラッと性格が変わるのが鎌倉時代です。御倉町に限定すると、鎌倉~南北朝時代には祇園社に所属する綿本座(わたほんざ)という綿商人の拠点でした。そして室町時代に入ると早くも千切屋の名が確認されるなど、商工業者の集住地域へと変化します。さらに近世になると、さらし商、蝋燭商、両替商、呉服屋などの商工業者が多く軒を連ねるエリアになっていきます。
こうした中世近世における卓越した経済的な力によって、御倉町は祇園会においても存在感を示すようになりました。室町期には「やうゆう山(楊柳観音に由来するものか)」を出していた記録があります。また、神興の担い手を出す轅町でもありました。神輿を担ぐ役は特別な人に限られるもので、祇園会の場合はそれを裕福な町人に割り当てていました。祇園会の中核的神事に参入するほどに、洛中の町々の中でも傑出した資本と勢力を誇る町であったわけです。
最近、面白い史料を見つけました。〈応安七年(1374)九月廿三日「松鶴丸の事」〉という訴状に「少袖座(こそでざ)」の記述が有るのです。つまり、室町時代の早期に三条室町には既に小袖を商う店があって、さらには「座」、つまり独占的に商いを行える特権的な商業者集団が存在した、ということです。この座がそのまま千切屋に接続していくということはいえませんが、製織あるいは織物販売に従事する商人が、はやく14世紀後半には三条室町に存在した点は十分に意識しておく必要があります。

 

 

「永禄四年五月二〇日付沽券状」永禄4(1561)年(「井川新右衛門沽券状」)

 

御倉町文書の存在

 このように御倉町には非常に豊かな歴史的資産が蓄積されており、さらにその歴史を知る上で有効な「町有文書(ちょうゆうもんじょ)」も確認されています。
古文書というと、古くからの寺社や武士や公家の家に遺されてきたものとイメージされやすいのですが、京都の場合は町(ちょう)という生活の基礎となった共同体にも文書が蓄積されます。年寄とよばれる代表者を決め、町の有力者をもって合議体をつくり町のあれこれを決めていくことが行われていましたが、その過程で生成された文書はいずれもこの年寄が管理することになっていたと考えられています。そして年寄が変わればその蓄積された文書も次の年寄の家へと引き継がれます。だいたい明治時代前半頃までには、この町運営の体制は停止してしまいますので、だいたいは幕末から明治に年寄を務めていた人物の家に引き続き保管されることとなりました。いわば、この町有文書がその町のことを最もよく伝える史料といえます。

御倉町の町有文書は約3千点で、おおよそ四つに分かれます。

 

 A)木島(このしま)家所蔵文書(個人蔵・京都文化博物館寄託)
   東京大学が約30年前から調査してきているもの。約1800点の史料数、一番古くは天正年間の史料も。

   17世紀初頭における巻子装史料が所蔵されている。

 B)大橋家旧蔵文書(京都府蔵・京都文化博物館管理)
   千切屋とも繋がる大橋家に伝えられてきたもの。約350点。19世紀以降の家文書とあわせて御倉町の町有文書が存在。

   室町時代後期の町宛の禁制が含まれている。

 C)市川家文書(京都府立京都学・歴彩館蔵)
   蠟燭商・市川(鍵屋)利兵衛家伝来文書。446点。

   町有文書には「御触書写」などの記録類も多く、御倉町を含む下京南艮組(しもぎょうみなみうしとらぐみ)内での寄合活動を伝える文書も存在。

 D)株式会社千總所蔵文書(株式会社千總蔵)
   千切屋惣左衛門家に伝来した史料。確認されるものだけで394点。

   千總の経営に関する史料のほか、町有文書も遺る。


 これらの中でも特筆すべき中世文書が〈史五・「三好政生(みよしまさなり)書状」〉(大橋家文書)です。

三好政生は三好長慶の部下ですが、この書状は長慶がこの地域を牛耳った一時期に出されたものと思われます。内容は三条御倉町に当てて、武力や家屋の強制徴発を行わないことを誓ったもので、要は安全保証です。これについては後述します。

また近年、これに匹敵する注目すべき文書が発見されました。御倉町文書を含め、地域に伝わる古文書の中で最古級のもので、一つは〈永禄4年(1561)「井川新右衛門沽券状」〉という家を売買するときに交わした証文。もう一つは〈元亀元年(1570)11月「某氏沽券状」〉で、こちらも家の売買に関するものです。

 

 

「元亀元年十一月付沽券状」元亀元(1570)年(「某氏沽券状」)

 

千總の創業伝承と史実

 千總の創業伝承は戦国時代の弘治元年(1555)です。ただ、私見ではもっと古く、1490年代、15世紀の末までは確実に遡れると考えています。
その根拠の一つが山門御代官に宛てた〈延徳4年(1492)6月20日付書状〉です。延暦寺に課税された際、その猶予を求める町の代表者として「チキリ屋」が登場します。千切屋と号す人が六角町西の頬(つら)で商売をしていた、ということですので、一族もしくは関係者とみる必要があろうかと思います。

また別の史料〈史二・「親俊(ちかとし)日記」天文七年(1538)七月七日条〉からは、千切屋(水谷)が重要書類を預かり管理する職能である土倉(どそう)として活動していたことがわかります。

もう一つ〈史三・天文十年(1541)十月二十四日付〉の文書からも、千切屋の動きが見てとれます。これは左兵衛府駕輿丁千切屋定得(さひょうえふかよちょうちきりやじょうとく)他二名が朝廷に申し上げた書状。「左兵衛府駕輿丁」というのは天皇が外出時に乗る輿を担ぐ朝廷に編成される職能集団で、これはそのリーダーの座を巡って、近松と争っている水谷側からの訴状です。駕輿丁たちは免税などの特権を与えられるため、中世では商人たちが競って駕輿丁になりましたが、千切屋の水谷はそうした中のリーダー格であったわけです。

 

 次に絵画史料に見える千切屋に注目してみましょう。国宝〈上杉本洛中洛外図屏風〉では三条室町のやや西に法衣を掲げる店があり、その前で僧侶4人が様子を窺うさまが描かれています。千切屋は法衣商として創業しているので、ここに描かれているのはまさにそれと思われます。あの狩野永徳も千切屋を描いていた、ということです。

 このように室町時代の千切屋は、六角町、御倉町など三条界隈を舞台に様々な活動を展開してきました。土倉、つまり極めて卓越した商人として倉を構え、その倉を根拠にしながら資金運用をするような有力な商人としての姿。それから禁裏駕輿丁という朝廷の重要な役職を担って、しかもそこでリーダーを務めている姿。さらに法衣商としての千切屋は、狩野永徳が京都全体を描くにあたってそのひとコマに絶対に欠かすことのできない要素として認識される大店でした。
 こうした千切屋の動きは、単一の一族の活動というより、近隣かつ散在性をもった複合的な職能の集団が、次第に三条室町を拠点として成長していったものでしょう。なお、室町時代は「千切屋水谷」と出て来るので水谷姓を名乗っていたとみられます。まず千切屋水谷という人物が席捲したのち、17世紀の中ごろには、はやくも西村姓が出て来ます。

 

 

近世の町の住人としての西村氏

 ここで、町の役人としての西村氏の姿を見てみましょう。それがよくわかる史料〈史四・「当町年寄ニ付町議控」宝暦十年七月四日条〉が大橋家文書にあります(図録『千總四六〇年の歴史:京都老舗の文化史』(京都文化博物館、2015)にてご確認いただけます)。
年寄とは町の代表者のことで、地域の名望家、皆から一目をおかれて且つ経済的にも豊かな者が選ばれた傾向にあります。西村氏はそのような人物と考えてよいでしょう。内容としては、例えば「地蔵尊の帳の華鬘」を新調する際、どのような仕様で、どこで・いくらで誂えたか、という記録がなされています。町の財産について細かくメモをとっていて、大店を仕切る旦那というよりは細々とした事柄にも気を配っている商人の姿が浮かび上がってきます。御倉町の年寄役の職務を考える上で格好の史料です。この地蔵尊は御倉町のお地蔵さんとして崇敬されていましたが、明治の区画整理にともなって西村氏が引き取られました。現在、千總の中庭にいらっしゃいます。

 

祇園会轅町であった御倉町

 

『祇園㑹細記』(宝暦7年)国文学研究資料館所蔵

 

 さて、町と千總との関りを考える上で、祇園祭はきわめて重要な要素であります。
祇園祭では山鉾巡行に注目が集まりがちですが、御倉町は神輿の方により深いシンパシーを持った地域です。といいますのも、三基ある祇園祭の神輿(大政所神輿=中御座、八王子神輿=東御座、少将井神輿=西御座)のうち、御倉町は少将井神輿の轅町に設定されていたからです。
轅とは神輿本体に括りつけられる担ぎ棒のことで、神と密に関わるものなので神聖視されていました。そもそもお神輿というのは年に一回、神様を町へ迎える行為ですので、神輿を担えるのは、町民として大変な名誉です。
現在確認できている轅町は23。それを地図に落とし込むと、かつての御旅所(烏丸高辻)周辺に集中していることがわかります。御倉町がなぜ轅町になれたのかは不明ですが、それに相応しいきわめて有力な共同体であったことは間違いないでしょう。

 

轅町における祇園祭の在り方

 明治時代の前半まではそのように、山鉾だけではなく神輿も町のものでした。としますと、今日、山鉾町で実施されている座敷飾りの在り方や宵山の過ごし方などが、轅町でもあったのでしょうか。それについて唯一発見できた史料が〈「祇園会定」享保10年(1725)6月〉です。少将井神輿轅町の一つである石井筒町の、祇園会における諸事を列記したもので、中に会所の床の間飾りの絵がありました。それによると、御神前之図を掲げ、おそらくは牛頭天皇、少将井、八王子に供えることを意味する三つの三宝で御神酒と御洗米などを供えるなど、会所にミクロ祇園社を再現していた様子がうかがえます。さらに「御轅」にも三宝を供える指示があり、轅そのものも御神体として祇園社の三柱に準じていたことがわかります。
轅町の会所飾りは、山鉾町の屏風祭のように伝来の屏風を立て巡らせて見る人を圧倒するものではなく、淡々と神様を祀る姿勢で設えられたようです。
 さらに日程表として内容を書き出してみると、6月5日に「雑色が会所に参る。床の間に『町之掛物三幅』」とあります。雑色は幕府の末端にあって祇園祭の諸事を取り仕切る人のことですが、彼らが会所に来るときに三幅の掛物を掛けたというのです。その三幅とは、五島邦治氏が明らかにされたところによると、①天文十八年(1549)七月「足利義輝禁制」②天正元年(1573)四月十九日「西水・小藤書状」③同年六月四日付「坂東久兵衛書状」でした。これらはすべて石井筒町が時の権力者から信任を得ていたことを示すものですので、床の間飾りでは祇園の神々を祀る一方で、町の屈指の歴史を表象していたこととなります。

 

 

速水春民写「祇園御社古図」文政3(1820)年(祇園社古図) 

 

 では御倉町ではどうでしょうか。ここで想起したいのが、先ほど紹介した〈史五・「三好政生書状」〉です。まさしくこの書状も町の安全を保証した、つまり石井筒町での「足利義輝禁制」と同じ性格のものです。大切にされてきたため、この書状には丹念に補修した跡がみられます。また添えられた書類〈史六・明治六年十一月「三好下知状売渡状」〉からは、それが往古より町に伝わるもので、明治初頭の段階では既に掛軸に仕立てられていたことが読み取れます。また町から大橋家へ売り渡すものの、他所への流出からは絶対に守るべき文書であったことがわかります。「三好政生書状」はまず間違いなく、会所飾りの一つであったことでしょう。


 実は千總にも同様の古文書〈史七・明治六年十一月「牛頭天皇神号等売渡状」〉が残ります。これは①牛頭天皇神号②祇園社古図③轅社納証書の3点を、西村惣右衛門に町が売り渡したとする証書です。「三好政生書状」とあわせ、町のもっとも貴重な財産だったと思われるこれらの資料類(威信財)は、明治6年に大橋家、西村家という町を代表する名望家に買い取られて今日に至るわけです。
先に言及した地蔵尊も、町の財産を西村氏が引き受けた例です。地蔵尊に関する刷り物によると、御倉町の町名はお地蔵様の御倉に由来するとあり、その重要性がわかります。像そのものについても、過去の文化財調査では平安時代に成立しているものであるとの結果が出ました。

 

 

本日のテーマは、千總にとっての三条室町周辺地域、そしてまた地域にとって千總はどのような存在であるかを、御倉町に残された資史料を素材として探ることにありました。
地域にとっての千總は、重要な経済的・文化的拠点であり、地域の文化資源の保管施設でもあることが明らかになりました。また看過できないのは染織工芸に関わるさまざまな職能民の結節としても千總は在る、ということです。例えば木島櫻谷のように、実業が画業を育て、画業が実業を助けるというような、潜在的な地域文化へも効果を及ぼしました。そうした在り方が当時の京都文化であり、三条室町を起点に複数の絵師が生まれた背景でもあったと思います。
またこのような実業における資本蓄積と文化的飛躍が、御倉町を祇園会轅町として固定化していったものと考えられましょう。

さきほど会場から「轅町が消滅した理由」についてのご質問がありましたが、町の人自身が担ぐよりも、町は担ぐ人を募集する側となったことに原因があろうかと思います。山鉾はそれを出す町と動かす人々が比較的一体性をもって持続しています。神輿と大きくここが違うところです。
明治10年代までは轅町が機能していたようですし、今後再び、町と神輿の関係が復活してくるといいな、と切に願っています。

 

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【講師】西山 剛

京都文化博物館 学芸員

文学博士。ご専門は日本の都市社会史。永らく中世の日本や京都の身分制度に関する研究を重ねられている。これまでに、特別展「織田有楽斎」(2023年、京都文化博物館・サントリー美術館)や企画展「町のちから 三条御倉町文書の世界」(2020年、京都文化博物館)など、多くの展覧会を担当。近年の著作には「北野祭礼神輿と禁裏駕輿丁」(『世界人権問題研究センター研究紀要』第26号、2021)、「近世北野社の一視角 「洛外名所図屏風 北川家本」の紹介」(『東京大学史料編纂所附属画像史料解析センター通信』第88号、2020)、「中世の駕輿丁と行幸」(『民衆史研究』第99号、2020年)などがある。

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【資料調査補助】小田桃子、林春名

 

会員ページでは、研究会の記録動画および当日の配布資料を公開しております。

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