特別鑑賞会・講演会「王朝時代の庭園-三条烏丸御所を足掛かりに」

特別鑑賞会・講演会「王朝時代の庭園-三条烏丸御所を足掛かりに」

講師:仲隆裕教授(京都芸術大学)

日時:2021年12月7日(火)午後1時30分〜3時30分
於:千總ビル5階ホール、千總中庭及び千總ギャラリー

 

千總本社ビルの立つ地には平安時代、貴族の邸宅「三条烏丸御所」の一角を成す庭園があり、その遺構が中庭に移築保存されています。特別鑑賞会・講演会 新シリーズ〈京都のまちの中の三条室町〉では、この地の歴史を入口に、千總を支え育んできた京都の文化について理解を深め、その保存と伝承について考えます。

第1回目となる本回は、庭園文化史および庭園の保存修復がご専門の仲隆裕京都芸術大学教授をお迎えしました。仲先生は以前、京都市の文化財保護技師として、三条烏丸御所を含む幾つもの庭園の発掘調査に携わってこられました。そうした現場での知見を交え、平安時代の庭園文化についてお話しいただきました。

 

 

平安京と発掘庭園

 

平安時代の京都は、北に位置する大極殿を中心に碁盤の目を形成しており、メインストリートの朱雀大路は、おおよそ現在の千本通だとされています。京都の地下には貴族の邸宅跡が数多く眠っており、これまでに待賢門院がつくった法金剛院寺、白河上皇と鳥羽上皇が院政を行った六勝寺、平安時代の終わりに院の御所となった鳥羽殿などが庭園遺構とともに発掘されてきました。千總本社ビルの地にあった「三条烏丸御所」もその一つです。ここの発掘調査は、千總ビル建設にともない昭和62(1987)~63(1988)年に財団法人京都市埋蔵文化財研究所によって行われ、寝殿造の建物跡や庭園跡が確認されました。

 

三条烏丸御所とは

 

 その「左京四条三坊九町」には、どんな人物が住んでいたのでしょうか。

最初の記録では11世紀後半、式部大輔藤原某(藤原家経か)からその子氏家が伝領したことがわかっています。その後、藤原光子(待賢門院の母、堀河・鳥羽天皇の乳母)を経て、光子の子、左大臣藤原実能に伝領されました。発掘された庭園は、この実能が造ったと考えられています。

天治4(1129)年には白河上皇、鳥羽上皇、待賢門院の三院が訪れ、随行した貴族の日記には「眺めがよく地形が風流である。厩に名馬が連なり、川では鴛鴦が遊んでいた」などと記されています。鳥羽上皇が大変気に入ったためでしょうか、実能は邸宅を献上。以後「御所」の名で呼ばれるようになり、上皇の没後も皇統の御所として継承されていきました。

 

 遺構が移築保存されている中庭

 

日記に出てくる「川」は、自然の川ではなく遣水(やりみず:水路のこと)です。遺構ではこぶし大の石をびっしりと敷き詰め、景石を据えた中島を擁する形で出土しています。一緒に出た食器や瓦などから、遣水が造られたのは11世紀末から12世紀初頭と推定されました。

 敷き詰められた石は鴨川のもので、重ならないように一つ一つ地面に貼り付けてありました。粘土を一面に敷いた上から押し込むようにして置いたのです。

また、中島をどのように造ったのかも調査されました。水路を掘る際、一般的には中島を掘り残します。ところがここでは、一旦中島の範囲を深く掘り下げ、あらためてきれいな土を入れ、丹念に搗き固めて中島を造っています。あとから流れで削られたり、景石が傾いたりしないように、慎重に作業したことがうかがえます。

このように庭園の発掘調査では、どんな材料が使われているのか、どんな技術で造られているのかを解明していくのです。

 

さて中島の景石はもう1石あったようで、その位置には固定するための根石のみが遺っていました。つまり、景石は取り外されているのです。

庭には大地のエネルギーや生命の存在が凝縮されています。それを鑑賞することによって力を得ることや、自然に祈りを捧げる場でもあるのです。ですから次の建物を建てるときにもぞんざいには扱いません。きちんと埋めて、清めて、それから次の目的へと移行します。生命を持っていた存在である庭園は、一部を壊すことによってその命をいったん終わらせ、清められたのでしょう。

ここの調査でも、発掘された敷石と景石は丁寧に取り外し、千總ビルの中庭へと再生されているのです。

 

遣水に敷き詰められていたと考えられる石(長辺約20cm、千總蔵)

 

 

平安時代の前・中・後期で異なる庭園の様相

 

ご承知のように平安時代も前期・中期・後期では世相が大きく変わりました。したがって庭園もそれぞれに趣が変化します。

延暦13年(794)~天徳4年(960)の初期は律令的天皇支配期にあたります。中国に倣い神仙世界を象った庭を、天皇自ら造ったようです。中国の長安には皇帝の庭があり、広大な池には蓬莱島を表す中島があるのですが、平安初期の庭はこうしたものをモデルにしたと思われます。実例はあまり遺っていませんが、嵯峨院跡(大覚寺)、その名古曽の滝と遣水、大沢の池は、嵯峨天皇が造られたとされます。
この時期は天皇の離宮が数多く造られました。桓武天皇が造営した神泉苑はその代表です。現在はごく一部を残すのみですが、当時の大内裏の南側に位置し、発掘調査で広大な池、船着き場も見つかっています。

応和元年(961)~応徳2年(1085)の中期は、摂関政治全盛期。われわれが源氏物語などでイメージする寝殿造はこの時代のもので、優美な遣水と池を配した寝殿造庭園が流行します。代表的な寝殿造庭園の例としては、藤原氏の氏の長者が代々伝領する「東三条殿」、藤原頼通が造営した「高陽院庭園」、堀河天皇による「堀河院庭園」などがあります。
 貴族たちは庭に日本の諸国の美しい風景を再現し、季節ごとの眺めを楽しみました。年中行事絵巻などには、池には楽師が乗り込んだ舟が浮かび、その水辺では優美な曲線をなす州浜や、反対に石組で荒磯が表現された様子が見られます。絵によっては「三条烏丸御所」とそっくりな遣水と中島が描かれているものも。白河上皇や鳥羽上皇、待賢門院が愛でた景色もこういう庭だったのではと想像します。
 ところで、寝殿造という様式があるとはいえ、個々の配置は案外自由で必ずしも一定ではありません。基本的に水は近くの川から引き込む、もしくは湧水を利用しますので、取水方法次第で建物の配置や構成が変わるわけです。ちなみに京都は東北が高く南西が低い地形ですので、水は東北から南西へ流し、池は南につくる例が多くなっています。

応徳3年(1086)~文治元年(1185)の末期は、院政が主流となり、院の御所に広大な庭園が造られた時代です。また末法思想により阿弥陀仏への信仰が高まり、寝殿のかわりに仏殿を建て、阿弥陀仏のための庭を造るようになりました。いわゆる浄土庭園というもので、例としては「平等院庭園」、「浄瑠璃寺庭園」、「法金剛院庭園」などがあります。「法金剛院」は待賢門院がつくったお寺で「青女の滝」という大きな滝が、平安時代のままの石組で遺されています。
 この浄土庭園は地方にも波及し、岩手県平泉町にある「毛越寺庭園」は、その優れた例となっております。造営には京都から人を呼んだのではと考えられていますので、その職人が「三条烏丸御所」の庭も見ていたかもしれないと思うと、なかなか楽しいのであります。


皆さんにもぜひ、古の庭園をご覧になり、往時に想いを馳せる機会を得ていただければと思います。

 

当日の講演会場にて展示された作品

 

講演の後は、庭園遺構の移築保存事例として千總本社ビルの中庭を見学。

発掘された景石や敷石が現在の庭にどのように生かされているかなどをご覧いただきました。

 

講演後の中庭見学会の様子

 

 

【講師略歴】

仲 隆裕(なか たかひろ)

京都芸術大学(旧名称京都造形芸術大学)歴史遺産学科学科長兼教授。農学博士(京都大学)。

千葉大学大学院園芸学研究科環境緑地学専攻修士課程修了。

京都市文化財保護課文化財保護技師(記念物担当)、山中庭園研究所、千葉大学助手(園芸学部)などを経て、現職。

庭園文化史研究、文化財庭園を中心とする遺跡の保存修復・整備に取り組む。元文化庁文化審議会文化財分科会第三専門調査会委員(名勝委員会)。

著書に『京都の庭園―遺跡にみる京都の庭園』(京都市文化財ブックス第5集、1990)、『庭園史をあるく―日本・ヨーロッパ編』(分担執筆、昭和堂、 1998)、

『夢窓疎石』(分担執筆、春秋社、 2012)など、主な設計・計画等に「史跡名勝平等院庭園州浜整備実施設計・施工指導」(京都府宇治市)、

「旧上野家庭園保存修復」(京都府舞鶴市)、「シェーンブルン宮殿内石庭保存整備」(オーストリア)など。

 

 

会員ページにおきましては、研究会の記録動画も公開しております。

https://icac.or.jp/private/