特別講演会「皇室文化と京都伝統の技」

特別講演会「皇室文化と京都伝統の技」

講師:彬子女王殿下

 

日時:2020 年 12 月 4 日(金)15 時 00 分~16 時 00 分

於:千總ビル5階ホール

    

 

日本の伝統文化、伝統技術はどのように後世に伝えていくべきでしょうか。ヒトとモノ、 情報がかつてないほどに往来し、価値観も多様化するなかで、様々な分野で取り組みがなさ れ、議論が重ねられています。

本講演では、彬子女王殿下をお迎えし、古来日本の文化芸術をお導きになり、またお支え になってこられた皇室の歴史、とりわけ明治時代の宮廷衣装を通して、日本の文化と伝統技 術の継承についてお話いただきました。

 

 

明治の宮廷衣装

 お正月の儀式や、御膳、菱葩など、皇室には平安時代からの文化が現在でも数多く受け継がれていますが、他方で服装は明治時代以降大きく変容しました。

 まず明治 4(1871)年に明治天皇から下された勅諭により、江戶時代の身分制に基づいていた服制は改められました。翌年には太政官布告により、皇室の男性の古来皇室で儀礼の服 として着用された装束類は宮廷服としては廃止され、また儀式用の服装は大礼服等の洋服 と正式に定められました。日本は、⻄洋列強と肩を並べるためにヨーロッパの制度や文物を 積極的に取り入れ、近代化の流れの中で統一的な服装として洋装を採用したのです。

  一方、女性は、ヨーロッパの宮廷と同様に夫人同伴を基本とする儀礼が求められるように なったことから、明治 19(1886)年に婦人の⻄洋服装が規定されました。体を動かしやす い構造である洋服を、当時の昭憲皇太后は小袖型の着物に代わる日本婦人の常用服になり うると考えられ、率先して洋服を着用されたようです。さらに明治 20(1887)年 1 月に出 された「思召書」には、殖産興業の推進と国益に繋げるものとして、洋服の着用の推奨とと もに、国産素材の使用を喚起されており、皇后としてのご見識の深さが窺えます。

 

女性の“洋装”とは

 さて、当時の女性皇族の洋装とはどのようなものだったのでしょうか。身分や官職に基づいて定められていた男性の洋装とは異なり、女性の洋装は一律とされました。

 まず最も格式の高い儀式に着用されるのが、マントー・ド・クールです。肩や腰から⻑い引き裾がつけられ、襟ぐりが大きく開き、袖無しもしくは短い袖のついたドレスです。次に、 ローブ・デコルテは一般のイブニングドレスに相当するもので、宮中の夜会や晩餐会に着用 されます。襟を深く穿ったドレスで、袖なしか短い袖がつき、裾は後ろに⻑めにとられてい るものが多いです。ローブ・モンタントは、⻑袖に立襟のロングドレスで、昼の礼装とされ ています。宮中での午餐会や拝謁、観桜会、観菊会などで広く使われました。その他に、服 制で定められてはいないものの、宮中で着用されたものにはヴィジティング・ドレスと通常 服があります。ヴィジティング・ドレスは、皇后が観桜会・ 観菊会、行啓、賜謁の際など に着用され、女官も賜謁の侍立や行啓の供奉の際に着用しました。外に出られる場合は、帽 子を合わせます。形はローブ・モンタントとほぼ同じですが、デザインや素材が少しカジュ アルになります。着物の訪問着というものがありますが、ヴィジティング・ドレスに当ては めたもので、ヴィジティング・ドレスを着る際は、この訪問着を着るというようなかたちで 考えられたものだそうです。

 

 当時の宮廷の洋装について、明治 22 年〜27 年まで英国公使夫人として日本に滞在した メアリー・フレイザーは、以下のように述べています。

「彼女たちはみな、淡い⻘や藤色やネズミ色のヨーロッパの繻子のドレスを身に着けて いました。とても⻑く裾をひくもので、今のヨーロッパでは着られなくなった形です。でも これを着ることは宮廷のエチケットの一部に違いありません。というのは、私は皇族や貴族の女性がかつて身に着けていた、途方もなく⻑い衣装を思い出すからです。」

(メアリー・フレイザー『英国公使夫人の見た日本』ヒュー・コータッツィ編、横山俊夫訳、 淡交社、1988 年、40 頁)

 

 マントー・ド・クールに代表される⻑い裾のドレスの形状は、導入当初から時代遅れの形 ではあったものの、十二単の裳と似ていたことで受け入れやすかったという理由があった のではないかと考えられます。

 現代では当たり前に身に着けられる洋服ですが、その背景には日本の未来を思い女性の 洋装化を自ら推し進められた昭憲皇太后の先見の明とご尽力があったことを忘れてはなりません。

 

 

宮廷衣装と京都の工芸

 さて、こうした洋服はマントー・ド・クールから通常服に至るまで、すべてが絹地やレースで作られていました。当初皇后陛下や女官の洋服のデザインや縫製は、外国人により行わ れていましたが、徐々にパターンブックからデザインを選び、宮中のお裁縫所で縫製される ようになりました。

 ドレスに用いられる生地に関しても、国産の布地の使用が推奨されていました。そうした 生地を納めた国内の団体のひとつが、渋沢栄一らによって設立された京都織物株式会社で す。同社は明治 20 年 4 月の工場完成に際して、昭憲皇太后の行啓を仰いで以来、宮内省か ら御下命を受け賜っていました。ただ、これまでとは異なるデザインの生地が求められたた め、洋服の生地の完成は一筋縄ではいかなかったようです。

 しかし、宮廷衣装に関するアドバイザーであったお雇い式部官オットマール・フォン・モ ールは同社に発注した生地を見て、専門家の目もうっとりさせるような素晴らしい布地で あった旨を書き残しています。これは、日本の工芸奨励のために、京都の職人が大いに努力 したこと、日本の技術がヨーロッパ人の目から見ても大変高水準のものであったことが窺 えます。

 こうした成果の根底には、現在でも行われている、京都の分業制による職人文化があるの かもしれません。様々な分野の専門家の英知と技術を結集させ、各工程の職人一人一人が個 性を抑えながらも最大限の力を発揮したものが合わさることによって強烈な個性が生まれ るのが日本の工芸の特徴ではないでしょうか。そして、その多くの人たちの思いが込められ ていることが、日本の工芸の魅力に繋がるのだと思います。

 

現在の皇室文化、伝え続ける燈火
 明治時代の服制が、昭和 29 年 7 月に成立した法律によって廃止されたことに伴い、宮中儀式等での女性皇族の服装は、時の皇后陛下をはじめ妃殿下方との思し召しによって柔軟 に変化するものになりました。具体的には、マントー・ド・クールは使われなくなり、ロー ブ・デコルテが第一礼装、ローブ・モンタントが第二礼装となり、平成の皇室へと伝わる枠 組みが形成されていきました。

 他方で、受け継がれている明治時代以降の文化もあります。例えば扇子を手に持つ習慣や、 手袋をする習慣、葬儀の時に黑いヴェールを掛ける習慣、またボンボニエールなど、ヨーロ ッパでは現在あまり用いられなくなったことが、日本の皇室では生き続けています。また、 何気ない習慣や先代から受け継がれてきた洋服など、皇族の方々の間でも様々な文化が継 承されているのです。

 こういったことは、時代錯誤の過去の遺物なのかもしれません。しかし、残ってきたこと には意味があり、淘汰されていくことにもまた意味があります。

 代々受け継がれていく様を伝統といい、また仏教では師匠から弟に燈火すなわち教えを 伝えることを伝燈と表します。皇室によって生まれ、育まれてきた伝統、この唯一無二の伝 統の燈火を守り、伝え続けていくことのできる存在でありたいと思っております。

 

[講師]
彬子女王 (あきこじょおう)
1981 年 12 月 20 日、寛仁親王殿下の第一女子として誕生。学習院大学を卒業後、オック スフォード大学マートン・コレッジに留学。日本美術史を専攻し、在外の日本美術に関す る調査・研究を行い、2010 年に、女性皇族として初となる、博士号を取得。京都産業大学 日本文化研究所専任研究員、京都市芸術大学客員教授、千葉大学特別教授および千葉工業 大学地球学研究センター主席研究員他。 子どもたちに日本の文化を伝えるための「心游舎」を創設し、全国で活動中。著書に『日本 美のこころ 最後の職人ものがたり』(小学館)、『赤と⻘のガウン オックスフォード留学 記』(PHP 研究所)、『京都 ものがたりの道』(毎日新聞社)

 

 

 

当日の講演会場にて展示の作品

岸駒筆〈孔雀図〉江戶時代後期、千總蔵 岸派の創始者である江戶時代後期の画家、岸駒(1749/1756-1838)の手によるとされる 絹本著色の絵画。本作を下図に制作された〈塩瀬友禅に刺繍海棠に孔雀図掛幅〉は、明 治 14 年(1881)の第 2 回内国勧業博覧会へ出品され、宮内省(当時)に買い上げられた。

 

〈看板 宮内省御用達 京都 ⻄村總左衛門〉千總蔵

宮内省(His/Her Imperial Japanese Majestyʼs HOUSEHOLD)の御用達であることを示した、 日英語表記の木製看板。宮内省御用達制度が存在した明治 24(1891)年から昭和 29(1954) 年の間で使用されたと考えられる。

 

【参考図版】〈法衣装束裂張交帖〉昭和 56(1981)年、千總編 左側のページの黑地の布地に付けられた紙片には、「宮内省御用御洋服地(中略)明治廿六 年十二月廿五日納メ(後略)」との墨書が記されている。