近代化を支えた画家
The Painters who Supported Modernization
概要Overview
12代西村總左衛門以降、美術染織品や型友禅の製造に際し、当時の京都画壇を牽引する日本画家たちが下絵制作に携わっています。岸竹堂(1826-97)や今尾景年(1845-1924)と12代西村は父・三國幽眠の代から交流があり、特に竹堂からは絵を習っていました。兄が西村の貿易部門に勤めていた木島櫻谷(1877-1938)は、美術染織品の下絵を手掛け、数々の賞を西村にもたらしました。このように西村に幾多の恩恵を与えた、日本画家たちの名品をご覧ください。
Under the initiative of Nishimura Sōzaemon XII, the leading artists of the Kyoto art scene were involved in the creation of preparatory sketches for textile product and kata-yūzen textiles. Nishimura Sōzaemon XII’s father Mikuni Yūmin kept ties with Kishi Chikudō (岸竹堂, 1826-97) and Imao Keinen (今尾景年, 1845-1924), and Nishimura Sōzaemon XII himself learned painting from Chikudō. In addition, Konoshima Ōkoku (木島櫻谷, 1877-1938), whose brother worked at Nishmura’s foreign trade branch, painted numerous preparatory sketches for award-winning ornamental textiles. Here, some of the works of these artists who worked with Nishimura can be seen.
所蔵品の紹介
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大津唐崎図 岸竹堂筆 / 屏風 八曲一双 / 紙本墨画淡彩 / 明治8(1875)年 / 各158.0×422.0 (cm) 向かって右の右隻には、雪の積もった大津の浜を、左の左隻には、琵琶湖のほとりで枝葉を広げる唐崎の松をあらわした八曲一双の絵画屛風。右隻には、岸辺の倉庫群といくつかの家々、雪のちらつく琵琶湖の湖面が描かれている。水面からは霧が立ち上っているため、初冬の明け方の景色であろうか。右下では、牛の曳く荷車に男たちが荷を載せ、桟橋では頭巾の女性が舟から降りた男性を出迎える。湖上は風が強いらしい。雪に霞んだ対岸の橋には、馬の背に荷を載せた2人の人物が進み、その奥には雪の遠山が連なっている。左の湖面に目をやると、小舟が進み、鳥達の飛ぶ姿も見える。対する左隻に描かれるのは、横へ枝先を伸ばした唐崎の松、堂社、そして広い湖面と遠山で、人物は全く登場しない。湖上には、魞(えり)漁の網と思しきものが描かれていることから、季節は春から夏であろうか。松の枝ぶりや樹皮、繊細な松葉の質感描写も見事だが、左上にある高い山も印象的だろう。これは、近江富士とも呼ばれた三上山で、さらにその右には金色の円が描かれる。『竹堂画譜続編』(山田芸艸堂、1901)では、本図を〈唐崎朝暾〉と記しているため、金色の円は朝日を示すと考えられよう。朝日に照らされ、琵琶湖は輝き、唐崎の松が複雑なシルエットを作る。そうした一瞬を絵画化したものだろう。 筆者の岸竹堂(1826-97)の落款はないものの、本図は明治9(1876)年のフィラデルフィア万博に〈琵琶湖上の風景〉として「西村總左衛門」(12代)の名で出品された。こうした経緯を勘案すると、左隻に配された伝統的な吉祥モチーフの朝日と松によって、日本を象徴したのかもしれない。一方、右隻の家屋などの写実的な表現は、写生を重ねた成果であることが判明している。すなわち、右隻に配された実質的な人の営みと左隻の日本の伝統的なモチーフとの対比を意識したのではなかろうか。そもそも、江戸時代には六曲一双が通例であった屏風を、八曲一双にしてよりダイナミックな画面を作り出している点などにも、伝統的な手法を用いながら近代を意識した絵作りをおこなっていた可能性がうかがえよう。さらに、基底材である絵絹の様子や画面下地の光沢などから、マチエールづくりにも工夫があったことが推察される。 |
猛虎図 岸竹堂筆 / 屏風 六曲一双 / 絹本著色 / 明治23(1890)年頃 / 各166.0×359.2 (cm) 1つの渓流を挟んで相対する、1頭と3頭の虎が描かれた六曲一双屏風。向かって右の右隻には、渓流のほとりで身を寄せ合う3頭の虎が描かれている。一番手前の虎は、画面左側である渓流の対岸を凝視し、傍らの虎も、腰をあげて前傾姿勢を取り、同じ方向に向かって咆哮する。彼らの視線の先には、左隻に大きく描かれた1頭の虎。虎は、対岸の虎たちをものともせず、渓流を駆け渡ろうとしているようにも見える。虎の体躯には、濃淡様々な毛描きが骨格に沿って丹念に施されている。背景の金砂子地とも相まって、獣としての虎の存在感が増している。筆者の岸竹堂(1826-97)は彦根藩士の家に生まれ、岸連山に師事した岸派の画家。虎図は岸派のお家芸と言われ、その中でも竹堂は写実的な虎を描くことに情熱を注いでいたようである。本作の制作前にも、竹堂は虎を写生する機会を持ったらしい。どっしりと量感をもって描かれた虎たちに、その成果があらわれている。竹堂は本作品を第3回内国勧業博覧会に出品し、妙技2等を受賞した。12代西村總左衛門が、日本画家を友禅製品の図案制作に起用し始める、契機となった画家のひとりである。 [備考] 右隻:[款]竹堂 [印](白文方印)「竹堂」(朱文方印) 左隻:[印]「竹堂」(朱文方印)(白文方印) |
群仙図 今尾景年筆 / 屏風 八曲一双 / 紙本墨画著色 / 明治19(1886)年 / 各154.4×484.4 (cm) 蛙を肩に乗せる蝦蟇、薬草の籠を持つ霊昭女、馬を診る馬師皇、口から魂を吐く李鉄拐、角の生えた鯉に乗る琴高など、様々な仙人や伝説上の人物が、右隻と左隻でそれぞれ11人ずつ描かれている。時折現れる雲、波、風は、仙人の特殊能力を示したものであろう。ごつごつとした岩場と合間に蒔かれた金砂子のバランスが、人界と隔絶する仙境の空気を見る人に感じさせてくれる。なお、本作に描かれた仙人の相互関係については未だ解明されていないため、今後も調査を進める予定である。作者の今尾景年(1845-1924)は、鈴木百年に師事し円山四条派の画法を学んだ近代京都画壇の重鎮の一人で、花鳥画の名手とされた。本作でも人物を表す優美な線や、かすれた筆で表出された岩などに、百年の影響が垣間見えるであろうか。12代西村總左衛門は父・三國幽眠の時からの付き合いであり、景年の号「聊自楽」は明治16(1883)年に幽眠によって名付けられたとされている。コレクションには、景年の手によるとされる下図や型友禅図案が多数保存されている。12代西村と深い繋がりのあった画家のひとりである。 [備考] 右隻:[款]景年観 [印]「今尾永観之印」(白文方印)「景年逸民」(朱文方印) 左隻:[款]景年今尾観 [印]「今尾永観之印」(白文方印)「景年逸民」(朱文方印) |
万壑烟霧 木島櫻谷筆 / 屏風 六曲一双 / 紙本墨画淡彩 / 明治43(1910)年頃 / 各169.4×551.6 (cm) 高さ約1.7m、幅約5mの屏風が2つ並ぶと幅10mを超える。通例の屏風1隻の大きさが高さ約1.5m対して幅約3.5mの比率であることと比較しても、本作がいかに幅の広い作品であるかがわかる。 本作の右隻には渓谷が入り組み、その合間に深い霧が発生している。 濃霧で視界を遮られ全容を把握できないが、渓谷は画面右端に向かって連なっているようだ。渓谷の奥から流れてくる、小川のほとりの杉林には炭焼き用と思われる小屋があり、おそらく画面左側に描かれた集落の住人が使うものであろう。左隻には、屹立した山々を臨む2軒の民家が描かれている。崖の向こうには、濃い霧で隠れているが、山々が画面左側に向かって果てしなく続いていく。民家は右隻で描かれた集落の一部と思われ、左端の民家には住人が仕事し、厩には数頭の馬が繋がれ、その右側には、馬に乗った人と従者がもう片方の民家に辿り着くところだ。筆者の木島櫻谷(1877-1938)は、飛驒や耶馬渓など、様々な旅の道中での雲煙の光景との遭遇が本作制作の契機になったことを、黒田天外の『続々江湖快心録』(1913)で話している。本作の各曲の本紙には継ぎのない1枚の紙が用いられており、そのために描写する墨線は途切れず、空間も仕切られないことから、見る人はこの絵で櫻谷が表した世界に没入できるだろう。 本作では雄大な自然の中で生きる、慎ましい人々の生活を描いていることから、単なる写実的な風景画というよりも、隠逸への憧れをも表現されているように感じられる。伝統的な大きさとは異なる破格の大画面に、西洋的絵画手法である陰影法などで自然描写がなされている一方で、東アジアで長らく親しまれてきた文人画的な精神を根幹に秘めている作品と言えるかもしれない。なお、本作は、明治43(1910)年の第15回新古美術展覧会に出品され、3等を受賞した。 [備考] [印] 「櫻谷」(朱文円印) |
模本沈南蘋花鳥動物図(内、鹿の図および蓮に白鷺) 岸竹堂、今尾景年他筆 / 掛軸13幅 / 紙本墨画淡彩 / 明治7-10(1874-1878)年 / 鹿の図他:各152.3×57.7(cm)、蓮に白鷺図:152.3×57.7 (cm) 岸竹堂、今尾景年、望月玉泉らの手によって写し取られた、沈南蘋筆〈花鳥動物図〉(1750)の模本。写実的な動物の描写や、岩の模様(斧劈皴)など、沈南蘋の技法や筆法を理解した上で原画の全てを写し取ろうとする画家たちの姿勢が、入念な筆跡から見て取れる。原画は、北三井家旧蔵(現・三井記念美術館蔵)の作品で、明治4(1871)年の第1回京都博覧会に三井高福により出品された記録が残っている。原画は11幅のみだが、表具などの都合により、2幅(蓮白鷺図・松鶴図)を追加した13幅が制作された。本作には、榊原文翠の記した「沈南蘋画幅友禅染由来記」が付帯している。それによれば、明治7(1874)年頃に宮内省(当時)から沈南蘋筆〈花鳥動物図〉を友禅染と刺繍で再現した屏風制作の依頼があり、本作はその下図の一環として制作されたことがわかる。なお、制作された屏風作品は、〈十二ヶ月禽獣図屏風〉(明治神宮所蔵)として現存する。この事業が、12代西村總左衛門にとっての、美術染織品制作の本格化と、図案への日本画家起用の嚆矢となったとも言われている。 |
元禄舞図 神坂雪佳筆 / 屏風 六曲一双 / 紙本金地著色 / 明治時代末期-大正時代初期 / 各77.5×224.8 (cm) 金地に元禄風の衣装をまとった老若男女が、列を成して楽しげに舞う様子を描いた作品。左隻の左端の男性は縁木に接するほど下方に描かれており、鑑賞者と同じ空間に立っているような錯覚を覚える。そこから行列を目で追うと、右側さらに右隻に行くにつれて行列は画面上方へと向い、最後は屏風の外へと連なっており、見る人を絵の中に引き込んでいくようだ。ニューオーリンズ ギッター・コレクションには、本作の右隻を反転したかのような屏風が所蔵されている。筆者の神坂雪佳(1866-1942)は四条派に学んだ京都の日本画家。琳派研究に勤しみ、雪佳の作品は光琳の再来とも称された。図案の提供や京都美術協会雑誌の編集など、西村總左衛門とは様々な接点があった。 [備考] [款]雪佳 [印]箐々(朱文円印) |
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